Twitterで見つけていいなーって思った言葉達
まあパクり上等のTwitterなんで元ネタが2ちゃんやったりするかもですね
ということで!
例えばペプシコーラを買いに行ってコカコーラしか無かった場合、
手に入る物で間に合わせては絶対にいけない。
本来欲しい物が見つかるまで探すか、諦めて手ぶらで帰るかである。
自分の本当の望みが何であるかについて誤魔化しを続けると、最終的に人生を見失う。
読むのが難しい名前の子供は、「どういう大人になってほしいのか」ではなく、
「どういう子供になってほしいのか」という視点で名付けを考えられたからああなったのだ
人の話を聞く時は、
この話を仮にニートやホームレスが言った時と大学教授や社長が言った時で自分の受け取り方が変わるか?
という観点で眺めてみると色々面白い。
大体の「イイ話」は発言者の影響力が強いだけで冷静に分析するとただの自慢話の事が多い。
悩む理由が値段なら買え。
買う理由が値段なら止めておけ。
「どうしたの、大丈夫?」って聞いて即座に 「だいじょうぶ」って返ってくるときはだいじょうぶじゃない。
大丈夫だったら「え、なんで、顔色悪い?」 とかって返ってくる。
様子がおかしいのを隠しきれてないって本人も自覚してるってことだから、できるだけ待っててあげたい。
ユダヤ人は死ぬ間際に自分に対して問う、『ユダヤ人の最後の問い』というものがある。
それは『お前はお前であったか。』という問いである。
この言葉は非常に深い。
自分のやり方に固執しすぎないことが重要だ。
そのためには、他人が「これいいよ」と勧めてくれたものは脊髄反射で、悩む余地なく反射的に試せるくらい身軽になりたい。
そこに自分の意見を挟まない。
そこでしゃしゃってくる自分の意見はたいてい論理的でなく、従来の習慣を守りたいがための屁理屈だ。
個人的には、インターネッツの利点は「繋がりやすい」事よりも
「繋がりたくない人と繋がらなくて済む」事でもあると思うんだけど、
にも関わらず、そのような「繋がらなくて済む」為のフィルタリングを要さない
「誰とでも仲良くしたい」と言うタイプの人を見ると、何かしら吐き気の様な不安感を覚える
初めて彼女が出来た時の「え、これ好きにしちゃっていいんですか、すごい、すごすぎる」
っていうあの感じを忘れない様にしたいです。
ネットの時の人格って今の自分がなりたい理想の人格なんだって
変態とかそういうのも理想の人格らしい
つまり、リアルとネットが同じ人格の人はなりたい自分になれてる、つまり自分に満足出来てる人なんだそうよ
神様は
「あー、うん。うん。わかる。わかるけどさ、どうしたいの?うん、うん、うん。じゃあ、がんばるしかないよね。がんばるしかないじゃん。じゃあ、がんばろう。見てるから。だめだったら、また、話しよう」
って感じの存在だと思ってる。
「帰るまでが遠足だぞ」って言うぐらいなら
「叶えるまでが夢だぞ」って言ってほしかった。
酔っぱらって人格が変わるのは一部の病的酩酊の人だけで、
通常の酔っぱらいは「自制心が弱くなる」だけです。
つまり、酔っぱらった時にとる行動というのは「やりたいけど普段は我慢している行動」なのです。
酔っぱらうと泣く人は泣きたがっているし、脱ぐ人は脱ぎたがっているのです。
私が今まで見た中で一番好きなPostは、
「Twitterの何が面白いの?」「面白いかどうかはさておき、きれいな満月は見逃さなくなった」ですね。
Twitterらしさを最も的確に表現していると思う。
サッカー観た人蹴った人、フェスで踊った人、家族サービス張り切った人。
疲れを嘆くつぶやきもどこか楽しげ。
週末の心地良いダメージは、新しい一週間を乗り切るための燃料になる。