海に咲く華
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『野ざらし:四章』

 何かが唇に触れましたが、微かに香る墨の匂いに包まれて私は目を開ける事も息をする事も出来ませんでした。
「小菊?」目を瞑ったままの私を心配したのか、若旦那様から声を掛けて頂いてしまった。
「は、はい。大丈夫で御座います」私は必死に取り繕うと川面を見たり、向こう岸の山を見たり会話を探しました。
「小菊、顔赤いよ」笑いを堪えている若旦那様を見て更に恥ずかしくなってしまった私はいたたまれずに席を立ちました。
「わ、若旦那様。仕事が有ります故、そろそろ戻らないといけません。失礼致します」畳まれた風呂敷を手に、もと来た道を歩き出そうとすると腕を捕まれました。
「小菊、よく聞いてくれ。私は小菊と夫婦になりたいと思っている」


 夫婦…?私と…若旦那様が?


 そんな夢物語が有る筈無いではありませんか。若旦那様と使用人風情が夫婦など有り得ない。それに万一本当だとしても旦那様や奥様に申し訳が立たない。

「嫌か?」


 嫌な訳ありません。貴方様と共に歩めるのならば、それ以上の望みはありません。


「若旦那様。有難いお話ですが私は使用人の身。その様なお話が現実になる事は無いでしょう」
 木陰に立ち尽くす若旦那様を後ろに私は家に向かいました。何度か名前を呼ばれましたが振り向かずに私は泣きながら家路に着きました。

『野ざらし:三章』

 木陰には少し冷たい空気が流れ、私は考えて居りました。
 貴方様はどうして気高いのでしょう。高嶺の花と言うよりも、美しく咲き誇る石楠花の様な方。私には手が届きません。

「なぁ、小菊」不意に名前を呼ばれたので言葉を返す事が出来ませんでした。只々若旦那様のお顔を眺めるだけ。
「小菊の父上や母上は元気なのか」お優しいお言葉です。
「はい。先日の便りでは元気にしているそうで御座います。下の弟達もその様で」
「そうか。それは何よりだな。」
「はい」この様な私にまで心配を掛けて頂いて、何てお優しい方なのでしょう。揺れ動く気持は中々鎮まってくれません。
「小菊は辛くはないか?毎日毎日大変ではないか?」
「大変だなんてその様な事は御座いません。旦那様にも奥様にも良くして頂いて…」

 若旦那様と一緒に居られるだけで…

「私は幸せ者に御座います」

 きらきら光る川面を眺めながら若旦那様の手が私の手に触れました。
「もし小菊が良いと思ってくれるなら、私とずっとあの家で暮らさないか」
「ずっと…で、御座いますか」仰る意味が解り兼ねますが、ずっと働けるのであればそれは願ってもいない事。
 それよりも温かな若旦那様の手が私の手を温めて下さる事が信じられず、それでも心地好く、川面の輝きも爽やかな風も遠い世界の様に感じられました。
「若旦那様…」絞り出す様に言葉を発すると一瞬にして目の前が暗くなりました。それは若旦那様のお顔が近付いて来た為であって、私は目を瞑ってしまいました。

『野ざらし:二章』

 陽が空高くに昇る頃、私は風呂敷に包んだ握り飯を河原に運ぶべく、奥様に断ってから家を出ました。
「小菊、ゆっくりしてきなさいね」
奥様の言葉の意を図る事が出来ませんでしたが、私は青い風の中を出掛けて行きます。

 河原には大きな柳の木が立って居り、若旦那様はいつも其処で本を読んでいます。

 今日も若旦那様は爽やかな風を浴びながら静かに座って居りました。
水無月の穏やかな日に似つかわしい若旦那様は声を掛けるのを躊躇ってしまう程綺麗でありました。

 「若旦那様」私は少し離れた所からそっと声を掛けました。若旦那様は本から目を上げ、私を見付けると微笑んで手を降って下さいます。
「小菊、こちらへ」隣の芝生を指して私を招いて下さいました。
「は、はい。只今」高揚する気持を抑えながら風呂敷を若旦那様にお渡ししました。
「遅くなりまして申し訳御座いません」
「ありがとう。とにかく小菊も座りなさい」

 悩みました。まだ家に仕事を残してきているのです。


 だけど…


「実は今日会う予定の人が来れなくなってね。握り飯、一人では食べ切れないんだよ」
「会う…方ですか」
女性の方でしょうか。
「だから少し付き合ってくれないかな」
理由はどうであれ、若旦那様と一緒に食事が取れるのは幸せな事この上ありません。
「願ってもないお言葉です」
私は少し間を空けて横に座りました。

 無言の空気でしたが、心地好い風を浴びながら若旦那様と一緒に川を眺めている時間は至福の一時でした。