文明は北へ移動する?

文明は北へ移動する?

歴史全体を見渡すと、文明の中心は北へ移動して来たようにみえます。
この考え方は、しかし、単純化し過ぎかもしれません。
北へ移動するという考えを応援する立場で記事を書いていきますが、賛成、反対、どちらの意見も歓迎です。
ゲームのように楽しんでいただければ。

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2月22日の西日本新聞朝刊に、「ギリシア支配下のエジプト採石場・2種の古代文字で労働記録」と題する小さな記事が出ていた。

 

ナイル川河口から約400㎞上流にある紀元前3世紀の古代採石場遺跡で、岩にギリシア文字とエジプト民衆文字、両方の文字が書かれているのが、名古屋大学の周藤教授らにより見つけられた。解読の結果、紀元前253年から約30年間の採掘の労働記録だとわかった。書かれていたのは、日付、名前、掘り出した岩の大きさのようだった。エジプトの言葉を、ギリシア文字で記してあったのだった。

両方の文字による記録が約10年間続き、その後はギリシア文字だけになっていた。

 

以上のような内容であったが、このブログに関心のある方であれば、最後の部分に興味を抱かれることと思う。エジプト民衆文字とギリシア文字両方による記録が続いた後、時間の経過とともにギリシア文字だけの記録に移って行った。あの栄華を誇った古代エジプト文明も、紀元前3世紀頃になると、はるか北方のギリシア文明の強い影響下に入ることになり、しかも年々その影響が強くなっていることがわかる。文明の重心が刻々北へ移って行っていることが、ナイル川奥の古代採石場の岩にも記されている。

 

そのように、私ならすぐに自分流の解釈をしてしまうのだが、実際には、この紀元前3世紀後半に入った頃というのは、どのような時代だったのだろうか?

アレクサンドロス大王が亡くなったのが紀元前323年。その後ヘレニズム文化が栄えるようになり、ちょうど、エジプト北端に位置するアレクサンドリアが輝きを放っていた時代に当たる。この時期にはメソポタミアから中央アジア方面にまでギリシア文化の影響が及んだことを考えると、ナイル川流域でギリシア文化の影響が強くなったとしても、それは必ずしも文明の重心が北へ移行していることを示しているとは言えないだろう。

                  

一方、地中海の西方では紀元前264年よりポエニ戦争が始まり、ローマとカルタゴが覇権を争っている。結局、北方のローマが覇権を握り、大帝国を作って行くことになる。アレクサンドリアも強大なローマに飲み込まれてしまう。

 

このような大きな流れをみた上でもう一度ナイルの古代採石場の岩に残された文字のことを思い浮かべてみると、やはりそれは、刻々と北へ向かう文明の重心の歩みを刻んでいるようにみえないだろうか。

ゴールデンウイークの一昨日、昨日と、福岡の町は、いつものようにどんたくでにぎわった。

昨日の昼前、私が天神、昭和通りの交差点を通った時は、露店が準備されているところで、まだ人出も少なかった。よいお天気だった。

 

交差点に立って信号を待っていた時、向こうの建物の2階の窓に、「コペル〇〇」と書かれているのが見えた。

店の名前にしては少し妙だなという気がした。あまり福岡の人たちになじみやすい言葉とは思えない。

とはいえ、その店が何の店かが気になったわけではなく、また、そこ書かれていたのが「コペルニクス」だったのかどうかを確かめることもしなかったのだが、前から少し引っかかっていたことが思い出された。

 

確か、コペルニクスはポーランドの人だったかな。

そんな北国の人が、地動説のような時代の先端を行く大胆な説で有名になるというのは、何か腑に落ちない。「文明は北進する」説によれば、ポーランドは、まだ今でも時代の磁力の中心が北上して来る時期に至っていない。コペルニクスはかなり古い時代の人ではなかっただろうか?そうすると、この説には飛び離れて当てはまらない例外ケースとなる。

 

先ほど、夕食の後、そのことをまた思い出し、調べてみることにした。

コペルニクスがポーランドで生まれ育ち、ポーランドで学び、ずっとその地域で活動を続けたとすると、私には、天上から直接知識を得たとしか思えなくなる。「北へ進む」説にとって、強烈な反証となる。

 

ウィキペディアでみてみると、コペルニクスは1473年から1543年まで生存している。ダビンチよりおおよそ20年後の時代に当たる。

この時代、ヨーロッパでは磁力の中心はフィレンツェからベネチア、ミラノといったイタリア中北部にあったはずだ。

 

もし、コペルニクスが若い頃イタリアのその地域に留学でもしていれば、「北へ進む」説にピッタリ当てはまることになるが、ずっとポーランドにいたとすれば、この説ではうまく説明できないことになる。

 

ウィキペディアを読み進めて行く。

コペルニクスはドイツ系ポーランド人と思われており、クラクフ大学で大学教育を受けている。1495年に学位を取らずにクラフツ大での学業を終え、一年ほどバルト海沿岸にあるフロムボルクで過ごした後、1496年からイタリアのボローニャ大学に留学した。1500年にボローニャ大学での学業を終え、一旦フロムボルクに戻ったが、1501年に再びイタリアのパドヴァ大学に留学している。フェラーラ大学でも学んだ後、1503年からはポーランドのヴァルミアに戻り、その後はずっとそちらで過ごした。

 

ピッタリだった。コペルニクスは、当時のヨーロッパの知の中心地で学ぶことにより、あの地動説を編み出したのだった。

ところで、パドヴァ大学といえば、シェークスピアの「ヴェニスの商人」でポーシャ姫が法学博士に変装して法廷に現れるが、パドヴァ大学から駆け付けたことになっていたのではなかったかしら。

穏やかな日曜日、桜のつぼみがもうはじけそうです。

 

今朝の朝日新聞の読書欄を見ていたら、「突然の文明崩壊、犯人は誰か?」という、私にとっては興味をひかれる文字が飛び込んできた。

「B.C.1177 古代グローバル文明の崩壊」エリック・H・クライン著、について、山室恭子さんという歴史学者が書評を書いている。

 

エーゲ海にきらめいたミュケナイ文明、トルコの大地に咲いたヒッタイトの文明、母なるナイルのエジプト新王国、キプロス、アッシリア、バビロニアと、後期青銅器文明の精華のことごとくがいっせいに地上から消えた。紀元前1177年のことだという。

 

この大破壊をもたらした容疑者として、地震、気候変動、内乱、海の民、があげられている。

「じつは全員が犯人で、いくつもの要因がよってたかって、相互依存していた各地の文明たちを共倒れに追い込んだらしい」と、犯人捜しの点からみるとやや期待外れの結論が書かれていた。

 

「じつは、『文明は北へ進む』という歴史の大原則が真犯人です」

こう言えると、楽しくもあり、すっきりするのだがなと思って、例によって歴史地図・年表を取り出してみる。

 

B.C.1177年ころというと、B.C.1286年カデッシュの戦いでエジプトとヒッタイトが戦った時から100年くらい後になる。

そうすると、この勢いよく闘った両者とも、B.C.1177年には滅びてしまったのか。

 

古バビロニア王国をみると、B.C.1728~1686 ハンムラビ王となっている。繁栄した古代バビロンも、その後一旦は衰退したのだろう。ネブカドネザル2世(B.C.605~562)のころにはまた栄えることになる。

 

で、当時の様子をみていると、重要な事実に気が付いた。

B.C.1200年ころから、鉄器の大量生産が普及してきていたのだ。

そして、この鉄の製造技術をいち早く取り入れ、鉄製の武器を整備したアッシリアがB.C.900年ころから強大となり、B.C.7世紀にはオリエントを制覇することになる。

アッシリアは恐怖政治による支配を行い、徹底的な略奪、殺戮をくり返した。

 

B.C.1177年に青銅器文明の崩壊があったとすると、その重要容疑者としては、この「鉄製の武器」が一番ふさわしい。「海の民」を始めとする民族の大移動による混乱も、「鉄製の武器」が広まり始めたためそれまでの統治形態が通用しなくなったことが、関連しているのではないだろうか?

 

ところで、アッシリアの中心都市は、アッシュールやニネヴェ。

それまでのバビロンやテーベやメンフィスと比べると、ずい分北方に移動していることが、地図で見るとわかる。

その後ギリシア文化が花開くのは、B.C.5世紀からB.C.4世紀にかけて。

 この頃、モスルという都市の名前を新聞でよく見かけた。

イラク北部の主要都市ではあるが、私たちにとってそれほどなじみのある町ではない。

新聞には地図が出ていた。町をチグリス川が流れている。

チグリス河畔の町。

チグリス川?

あのチグリス川?

 

ずっと昔、古代に思いをはせてみる。

このモスルの地域が、実際に世界の中心であった時代があった。

そう、あのアッシリア帝国の時代だ。

エジプト、バビロニアを領内に治めた大帝国を形成している。

その首都が、ニネヴェ、モスルとほぼ同じ位置にあるニネヴェだった。アッシュールバニパルの時代に大きな図書館も作られていた。

文字通り、当時の世界の中心と言ってよい都市だった。

 

で、また例によって歴史年表と歴史地図を片手に、歴史を大きく、鳥の目で空の上からみてみる。

 

B.C.2500年ころ、メソポタミアの一番南、海岸部の都市ウルを中心にシュメール人の都市国家が栄えた。おそらく、当時の世界では最高の文明が、それらの都市にあった。

B.C.2000年ころはウル第3王朝の時代。シュメールとその北にあったアッカドが一体となり、メソポタミアの中心となっていた。

つまり、文明の中心が少し北へ移っている。

B.C.1700年ころは、ハムラビによってバビロニア王国が栄えた。バビロンが世界の中心だった。

B.C.1300年ころには、北部のアッシリアが力をもってくる。このころの首都はアッシュール。B.C.1240年には、バビロニアを征服する。

B.C.700年ころには、アッシリアの力がさらに強大となり、エジプトを含めオリエントを統一している。このころの首都がニネヴェ、現在のモスルとほぼ同じ場所だった。

 

この間の中心都市の移り変わりを地図で確認してみると、ウル、バビロン、アッシュール、ニネヴェと、順番に北へ移っている。

 

そんなに単純なものだろうか?

人類の文明が発生して、その後、活力の中心が正確に北へ向かって移動していったことが示されている。

実は、この後がなかなかすっきりとはいかない。

 

アッシリア帝国が滅んだあとは、新バビロニアのバビロンが栄えた。

B.C.525年にはペルシアがオリエントを統一し大帝国を築いている。バビロン、スーサ、そしてペルセポリスが中心都市だった。

また中心が南に戻ったようにみえる。

 

ところが、ペルシアの西北に目をやると、

B.C.430年ころ、ギリシアのアテネの全盛時代。

B.C.330年、ギリシアの北マケドニアのアレクサンダー大王によって、ペルシアは征服されている。バビロンもペルセポリスも。

さらに、さらに、そのあとはご存知のローマ帝国の時代になる。

 

古代のメソポタミアに視点を置いてみた場合にも、南から西北へ向かう大きな流れが見えてこないだろうか?

誰にも抗うことのできない北へ向かう流れが。

桜咲き乱れる日曜日の午後、ふと「応仁の乱」のことが頭に浮かんだ。

最近、本屋さんや新聞の読書欄などで「応仁の乱」を目にすることがあったせいかもしれない。

 

「応仁の乱」というと、日本の歴史上重要な出来事の一つであることは間違いなさそうだが、ずっと思い出すこともなかった。

ひとつ、ウィキペディアででも見てみよう。

もしかしたら、あの「北へ向かう力」がここでも顔を出しているかもしれない。

 

時代は1467年~1477年、主な戦場となったのは京都であった。 

足利義政、義尚を擁する東軍と足利義視を擁する西軍が戦った。細川氏、山名氏の権力争いがからんで、各地の有力者が争いに参加した。一時は西軍が優勢であったが、結局、和睦により西軍が解体され、東軍の実質的勝利に終わっている。

 

この「応仁の乱」に、大きな歴史の流れの上で、どのような意味があるのだろうか?

「源平の戦い」や「関ケ原の戦い」に比べると、勢力図や旗印が明確でないようにみえる。京都の町を破壊してまで戦わなければいけなかった理由が、いまひとつはっきりしない。東軍、西軍というのも、両軍の位置関係から来たもので、東の勢力、西の勢力と、はっきり分けられるものでもないようだ。

どうも歴史の底を流れる法則のようなものを見つけるには、雑然としすぎた、的外れの出来事なのかもしれない。

 

それでも何か言えることはないかと、実際に起こったことのポイントを、私なりにしぼってみた。

 

1.中央(室町幕府)の権力、統制力の低下が起こった。それに伴い、地方へ権力が分散し、大名たちが互いに争う戦国時代へ向かうことになった。

2.京都の町が荒廃した。また、歴史的資料の多くが失われた。

つまり、日本の歴史の部分的な断絶が起こった。ある種のリセットが起こったことになる。

 

ここまで来て、ようやくみえてくるものがあった。

そう、それまでずっと長いこと、平安京遷都以来日本の政治文化の中心であった京都の町が、この内乱によってその役割を終えたという、とても大きな意味合いがみえてくる。

つまり、個性豊かな数々の登場人物がそれぞれの役割を演じていることは横に置いて、「応仁の乱」の一番大きな意味は、日本の歴史の重心をなしてきた京都の町が破壊され、京都の時代が終わったことにあるのではないだろうか。

 

奈良から北方の京都へ日本の中心は移り、そして京都がこの「北へ向かう力」を支えきれなくなると、次には、日本の重心は江戸で支えられることになる。

秀吉の大阪ではなく。

江戸は、京都から見て東だが、弓なりになった日本列島の地形と文化的背景も考えに入れると、「北」になる。