Post Script というよりは Summary に近いけど・・・まぁいいや。


さっきの記事、偽りを述べてしまう、とかそういうのではない。


自分の望まないように、行動してしまうか、


望むように行動して自滅している、ということだ。

最近タイトルが重複していないか、とか全く気にしてないなぁ。


(それ以前に最近記事すら書いてないけど)




今日はお久しぶりなのに申し訳ないですが、


誰のせいでもない(ここ重要)


黒い塊を消化しにきました。


これ見て「自分のせいかな・・・?」ってな感じで、


心配とかしないようにしてください。


あと、嫌悪を抱かれても責任もてません。






今偽善者から脱却しようとしてるんですけど、


なかなか難しい。


偽りなのは善の部分であって、


決して善でありたいって感情は偽りでもなんでもなく真実なんです。




でも、無意識に計算しているのに気づくんですよ。


人の心配する時だってそう。


人間関係円滑にしたい、って気持ちでやるときが大半になってしまう。


結局は善人じゃなくてエゴイストだよね、そういうの。


回避、逃避。




ある時から心をうまくコントロールして、


計算をなくすようにしてる。


…まぁ今ですらごく一部の人間相手に限られますが。




その結果、結局自分が不安になるだけ。


本当に人のためになることは、


そのことをどんな善人が行おうとも、


少なくとも直ぐにその善人のためになることになるとは限らない。




計算しないで本当に自分の最善策を尽くせた点では、


今自分は満足している。


自分のしたいことに反して、最善だと客観的に判断出来たのはよかったんだよ。


ただ、そこで結局自分が不安になるあたり、自分が未熟としか思えない。




要するに今の自分は強がっているだけの臆病者(チキン)だな。


自分の決定に責任をもち、自信をもつ。


過剰なのも問題だが、いい加減に不足をなんとかしろよ、自分。

パソコン触ってますけど気にしないでください。


ちょっと書きたいことがあって。






8/6 および 8/9


この日が何を意味するか、「知る」人が沢山居て欲しい。


むしろ、「知らない」人が少数であって欲しい。


でも、“ある意味で”「分かる」人はどんどん減ってしまう。




先に述べた日は、


原爆が広島に投下された日、8/6です。


また、


原爆が長崎に投下された日、8/9です。


事実として述べ、それを聞く、ただそれだけで「知る」ことになってしまう。


でも、「分かる」ことは絶対にできない。


今この記事で自分が使う「分かる」ことの意味は、


一般に「分かる」こととは違います。


本当に「分かる」というのは、それこそここでは全て体験することと同じ。


自分は被爆者ではありません。


だから、原爆を投下され、被爆した瞬間に感じるであろう、


苦しみ


空虚


絶望


怒り


それらの混ざった混沌とした思考は「分かる」ことは出来ないし、


その後に感じるであろう、


熱さ


飢え


渇き


痛み


これらのような五感も「分かる」ことは出来ないでしょう。


本来なら、このようなことがそもそもあったのか


推しはかることさえ出来ないくらいなのです。




ではなぜ今私は、


せめて推しはかることが出来たのでしょう?


私は、所詮普通の、一介の高校生に過ぎないのに。




それは、「知る」ことから先に進もうとしたから、だと思うのです。


「知る」ことから考えることで、


「分か」れなくても


「分か」ろうとする、


そこから発想出来ました。


だからきっかけは何でもいいから、


テレビで原爆に関する特集をやっていた、


新聞でも原爆に関する特集をやっていた、


歴史でそう習ったのを覚えていた、


そのようなきっかけでも何でもいいから、


まずはそのような事実の存在を「知る」ことがなければ


そのことについて考えを巡らせることなど出来ないのです。




俗な話ですが、私がこのようなことを書こうと思ったのは


まさにあるテレビにおける原爆に関する特集がきっかけでした。


私は原爆が投下された事実や、その惨状は以前から「分かっている」つもりでした。


「知っている」に過ぎないのに、そう考えていたのです。


しかし今日テレビを見るうちに、


自分が「分かっていな」かったこと、


それに気がついたのです。


いや、


「知らな」かったことすらありました。


被爆者の肉体的、あるいは精神的な傷や傷跡


アメリカでの原爆認知


このようなことを知らなかったのです。


「分かっていな」かったは先に述べた通りでした。


「知る」ことの大切さ、また、「知る」ことから


「分か」ろうとしる大切さ、


それを感じました。




あと、もう一つはステレオタイプです。


先ほど述べた「アメリカでの原爆認知」とは、


「アメリカの原爆投下は


アメリカの勝利の手段として、


戦争の早期終結の手段として、


真珠湾攻撃の報復として、


最良の手段であった」と、


そのように記載されているそうです。


自分の述べることにだってステレオタイプはある訳ですから、


逆説的ですがここでこの是非について述べることは出来ません。


もちろん、あくまでも個人の意見として憤慨はしましたが、


それと述べたいこととは別の話なのです。




この記事で私が伝えたいと思っていることは、


「知る」ことに偏りが出来るのは否めない、という点です。


先の具体例で分かる方も多いと思いますが、


抽象的に言えば完全に「知る」ことが出来れば「分かる」ことになるのですから、


「知る」ことに偏りが出来るのは自然なのです。




「知る」だけで終わらず「分か」とうとする補完行動が重要であることが、


このことからも思い至りました。




つまらない高校生の所感ですが、ちょっと書きたくなったので。

最近ヒッキーやってます、すいませんw




久しぶりの更新。前更新したのいつだっけ?


生きてますよ~。




さて、病んだ自分を叱咤するために貴重な時間を割いて書き込みます。


つまりまぁ、本当に個人的な日記ですな。


なぜ公に曝すのでしょうかw




こうして日本語を書いている間に、


文章が英語に脳内で勝手に変換されたりする。


はたまた飯食ってるときにも頭の中で数式、物理の式が脳内を駆けめぐる。


それはまぁ、いいんだけど。




大敵、生活習慣。




本当に、朝に弱い。


あとは、誘惑にも弱い。


だめじゃん(自嘲)


まずはパソコンを断つか。


次にipodを断つか。


それだけやればだいぶ違うはず。




よし、これで明日からパソコンつけたら自分は駄目人間ということでww


というわけで、更新しばらくありませんが、


どうぞ暖かい目で見守ってやってくださいw


(たとえば半年後に更新しようとして、


IDかパスワードが違うようです、なんてことになってたら悲しいじゃないですかw)




Once again waiting for the darkness, beat up spun and scarred.


Preparing for another war.


Day by day we decay.


Sunlight, get out of our way.


Dig up yourself from your grave.


―Children Of Bodom "Living Dead Beat"より―




こういう貪欲さが欲しいよね。

生きてます。




・・・なんてこんな杜撰な記事にするわけはなく。


といっても記事の中身が酷いことに代わりはありませんがw




なんか最近切れること多いなぁ。


周りに期待しすぎてるのか、自分に期待しすぎていたのか。


いずれにせよ現実見て動けるような人間にそろそろならんとヤバいっすね。




これからストレスもっと溜まるんだから、耐性を取り戻さなきゃ。


やらなきゃいけない理由も幾つかあるし。




そんなこんなで、荒れてる受験生のつぶやきは終了。






よおおおおおおおおし、やる気が出てきたッ(嘘くさ)






数学ネタでちょっと語るので、見る気のない(見たら萎える)方はスルーでお願いします。。




最近数学が、マクロの視点とミクロの視点二つを基準に語られていることが分かってきた。


(どこかの予備校の古文教師がそんなことを言っていたような気もするw)


微積なんて文字通りミクロ&マクロだもんな。


個人的には位相幾何学に興味があるんだが、こっちはミクロの視点しか知らない。


位相とマクロ、という相反しそうな概念は調和を成すんだろうか?


微積が逆演算だというように、どこかでクロスロードはあるはずだから。




答えを知りたい。少なくともあと数年後までには。


さぁて、フーリエ展開についてまとめますかね。


積分の基本概念からは、もうあれ以上発展しないのでしょうか?


そんなことはないと思いたいナァ。


マクロを極める点では統計に繋がるけど、


関数と積分の二つの概念の極みはフーリエ展開に思えてしょうがない。




マァ、まだまだひよっこだからなぁ。