「人間関係論」 byカミソリ朝顔

「人間関係論」 byカミソリ朝顔

カミソリ朝顔が勝手に人間関係を論じました。

人間関係の理想系とか、スタンダードな形を提案するわけではありません。

人間関係の必要性とか、円滑にする方法等を提案するわけではありません。



人と人とが関るということを考えます。それが「人間関係論」です。

Amebaでブログを始めよう!

争い(ケンカ・イジメ・殺人・・・)

和 (友情・愛・結婚・出産・・・)

人間関係は極端だ。人間同士が関ると、下は戦争や殺人、上は結婚そして出産という新たな生命の誕生まで、ありとあらゆる出来事が発生する。新たな生命が誕生という素晴らしい出来事があっても、その後の夫婦の人間関係によって、子供が悲運人生を歩まないとも言い切れない。

人と人が関ることにより、上記の全ての出来事が、今後起きる(起きてきた)のである。

また、人と人が関らなければ、今の世は無いのである。

そう、当たり前のことなのだ。人間関係とは当然の営み。

だが、そこから生まれるのは、全てが当たり前・当然とは言い切れないことが山ほど有る。

戦争・殺人・イジメ・等は、当然の事だ、人と人が関ったのだから、あり得ないことではない、などとは決して言えないのである。しかし、その一方でそれが事実でも・・・。

皆が忌み嫌う、イジメ・戦争・殺人は、皆が普段当たり前に行っている人間関係から生まれるものなのである。だからどうした?なのであるが、ここに続く論は無い。ただ、このことを事実として認識するのが、きっと物凄く重要なのだ。

人間関係論とは、文字通り「人間関係」を「論じた」ものである。



人間関係を論じると言ってしまうと、「人間関係を論じることは不可能だ、そもそもそれを論じたところで何になる?人間関係は人それぞれで、100人の人間がいれば、100通り以上の人間関係がある。だから、人間関係について論じたところで何の意味も持たない。」等とのご指摘を受けそうである。


ごもっともだ。私もその意見に賛成である。「自分から人間関係を論じると言っといて何だ?」と思われるかも知れないが、その通りなのだからいたしかたない。ただ、それは私の言う人間関係論が、人間関係を円滑にする方法を論じるなどと言った類のものだったらの話だ。


私が、ここでこれから論じようとしている「人間関係論」は、人間関係に答えを導くことに目的を置いているわけでは決してない。人間関係とは何か?というテーマを根底に置き、色々な角度や目線から考えていく、というものである。考えた先には答えなどは決して無い。だが、答えは出ないが、深く考えた先には、きっと得るものがあると私は信じている。