先週は、身近な人の中学校同期会(土曜)、運動会(日曜)だった。それで、先週は、私一人で家族のかいものを適当にやったため一昨日(金曜)は冷蔵庫が空っぽになり、家族からはすこぶる不評だった。それで、昨日は、南砂ショッピングモールSUNAMOで、身近な人に連泊出張の日当の還元とスーパーで大買い物をしました。
  ★西部戦線異状なし-スナモ
なお、私が楽しみにしているのは「味見」。
昨日の味見は下記。
「浅漬けのかぶ」
「アイスクリームが入ったコーンフレーク」
「ウインナー」
「焼き肉」(2回)
(これがおいしかった)
「(無糖)午後の紅茶」
(小さなティッシュの箱3箱もらう)
「ヨーグルト」

そうそう、そのモールにある輸入食品雑貨屋さんのコーヒーサービスも飲んだ。
「潔癖症の人は味見ができない」らしいが、私はそうではない。
ただ、新型インフルエンザが流行したら、まず、これをやめないといけないだろう。
とにかく、大きな「スーパー」はこれがあるから楽しい。

で、首記の話です。

先週は連泊の出張があった。いつもは、売れ筋の新書は古本屋で半額で買うのですが、日当の先取りで大盤振る舞いで松岡正剛の「多読術」(ちくまプリマー新書)を購入し、それと図書館で借りたアドルノの「音楽社会学序説」を読みました。

●多読術/松岡正剛/ちくまプリマー新書
西部戦線異状なし-多読術この本は対話形式で書いてあり、気楽に読める。詳しくは、既にいろいろなブログで紹介されているので書きませんが、2つだけ覚書として書いておきます。
●「無意識」
音読から黙読に変わったとき「無意識」が生まれた。この指摘は鋭い。ただ、そうかもしれないが、本当にそうだろうか。「言葉」そのものが生まれた最初の時、「言葉」の範囲で(意識と同時に)無意識が生まれたのではないだろうか。だから「(何らかの)言葉」を持つ動物にはそれなりの無意識を持っているのではないか。なお、松岡さんは書評ブログである奇書(書名を忘れた)を紹介したのを思い出した。「昔の人類は右脳と左脳の連携が不十分だった。それで、右脳から「神の声」を聞いていた。」と書いていた。これは不思議で、さもありなんと思われる仮説と思う。この考えは、「昔、言葉は音楽だった」というフルトヴェングラーの言葉につながるのではないか。そして「無意識」は「音楽」につながっているような気がする。
●「本は二度読む」「鳥瞰力と微視力」「目次を読む」「本はノート」
これらは言わずもがなで同感。なお、私は本当の読書の面白さは、彼の言葉でいえば「微視力」にこそあると思うし「行間を想像する」ことが至福の時ではないかと思う。最後はそこに帰るのではないだろうか。それで、松岡さんは最晩年、どこに帰るだろうか(彼自身は帰る港がないのかも)。または、最後まで走り続けるのかもしれないが、それはそれで良いだろう。

●音楽社会学序説/Th.W.アドルノ/平凡社ライビラリー
この本は、やっと半分ほど読みました。(気が向けば)後ほど。以下、簡単な感想を少し。
・アドルノ(1903年-1969年)の言葉は結構難しい。あとがきに、アドルノは言葉を多義的に使っていて「訳者泣かせ」と書いてある。ドイツ人からも「まず最初にドイツ語の勉強が必要」と言われていたらしい。確かに、文化系の頭のいい人は、理科系の人(簡潔にまとめるのが好き)と違って頭が多重化しているようだ。
・アドルノはユダヤ系の哲学者。第二次世界大戦でアメリカに亡命した。この本の後書で、彼はシェーンベルクと同じくアメリカのマスプロ大衆社会になじめなかったのではないかと書いてある。たしかに、当時よりさらに相対化(ある意味ではサブカルチャー化)が進んだ現代からは、彼の音楽社会学論文は化石のような古い印象を持つ。ただ、(正統?)西洋音楽擁護の立場から、音楽の大衆化を社会学的に批判したその論点は鋭い。なお、少し軸足を大衆に移したら良いのにとも思った。もうすこし彼に付き合ってみようかと。

(追記)
なお、アドルノの業績は、「ナチの研究等から、人間を解放へ導くはずの「啓蒙」が逆転して新しい野蛮を生み出す近代文明・管理社会の本質を厳しく批判したことにある」ようだ。例えば「同一性」「自己形成の途上でさまざまな抑圧と克己を経るうちに、画一的な自分のあり方を身につける。その自分に「他」を同一化=統合させようとするとき、すべての悪の根源としての「暴力」が始動する。」からの解放を説いたらしい。

●買った本
●マックスウェーバーと近代/姜 尚中/岩波現代文庫
西部戦線異状なし-マックスウェーバー
この本は、岩波新書の「マックスウェーバー入門」を読んだので、もう1冊読んでおこうと思い購入。私は、興味ある物事を知るためには2冊本を買うことにしています。
著者は、熊本生まれの東大教授、政治学者・姜 尚中(カン サンジュン、1950年~)。本書『マックス・ウェーバーと近代』は彼の処女作らしい。
  ★
宗教がひとつの全体性を象徴する意味の体系でなくなっている以上、キリスト教を含めどの宗教といえどもイデオロギー的な寓話に過ぎない。マックスウエーバーは、宗教も特定の価値関心に基づいて構築された理念型的な「フィクション」とみなし、その文化の社会的意義を明らかにしようとしたのが「宗教社会学」。マックスウエーバーがこのような世界観を持ったのは、半アジア、半ヨーロッパ的なロシアの研究からだったようだ。
  ★
この本は、第1章から第3章でマックスウエーバーの思想を解説し、その切り口で、近代の象徴アメリカニズムを論じている。私は、とても拙いレベルですがキリスト教を西洋音楽の下部構造を考え、それを理解しようとしてきましたが、マックスウェーバーに至りなんとなく(それなりの)輪郭が見えてきたような気がする(これも、私のいつもの勘違いかもしれないが)。
●本の構成
序章「いまなぜウェーバーか」
第1章「西洋的合理化の起源―「古代ユダヤ教」に即して
第2章「西洋的合理化と近代の時代診断」―「近代西欧」の意味像
第3章「合理化と近代的な知のアポリア」
第4章「アメリカニズムの倫理と「帝国」の精神」


マックスウエーバー的切り口は、グローバル化を進んでいたアメリカニズムと同時に、キリスト教文化の良いところ(あると思います)を引き継がず、資本主義システムのみを引き継いだ(と思われる)明治維新後の旧日本、そして共産主義の体制下での国家資本主義をまい進する中国にも当てはまるのではないだろうか。ただ、私がこの本を読んでいるのはそういうのが目的ではなく、何度も言いますが、これは「バッハと(西洋)音楽」を知るための回り道なのです。

結構読みかけの本が増えてきた。
これらを音楽を聴きながら(そして、多少は趣味のギターを弾きながら)少しづつ読んでいこう。
・・・ということで。
今週は連泊の出張でした。
それで身近な人は機嫌が悪い。
たしかに、家事と(最近の)学級経営のかけもちは大変だ。
それやこれや、いろいろ心配事があり結構大変なのですが、
この不況の中、多忙な日々を過ごせるだけでも有難いのかもしれない。
ただ、人生の最後のコーナーをこのまま駆け足で回ってしまってよいのだろうかという気もする。
いろいろなことをまるごと抱えたままなのは仕方が無いとして、
最後のコーナーは、音楽とコヒーと読書(三昧)で過ごしたいような・・・。

で、今日の話です。

最近、バッハのリュート曲について書いた昔のブログにコメントを頂き、それがきっかけで、今日、U-tubeでBWV999の演奏をなんとなく聴いていたら、面白い演奏にぶつかった。
ギターにフルートの旋律が乗っかっている。
ギターの演奏はヘタですが、フルートの旋律は気に入りました。
甘ったるいグノーのアベマリアより、はるかに良い編曲ではないかと。
(ただ、U-tubeで聞きなおしてみるとグノーのアベマリアも悪くない。
しかしながら、J.S.バッハのオリジナルをないがしろにしていないといういみでは、
こちらの編曲が良いと思う。われながら何を言っているかわかりませんが・・・)
とにかく、BWV999にこの旋律が乗っているというのは、驚きであり、
こういう二重奏ができたら、楽しいだろうなと思う。



なお、ギターの演奏家と思われる人の写真がなんとなく亡霊のようで怖い。
・・・ということで。

(追記)西部戦線異状なし-コダーイ
私は知りませんでしたが、これは、あのハンガリーの作曲家ゾルターン・コダーイ(1882年-1967年)の編曲らしい。楽譜も売っている。ミーハーで権威に弱い私は、納得です。コーダーィなら、ああいう旋律をつけるだろうな~~と思うし、さすがだと思う。
右の楽譜はヴァイオリンとピアノとなっていますが、フルートとギター(又はハープシコード)のほうが合うような気がする(たぶん)。ただ、一度はヴァイオリンとピアノでも聞いておきたい。


  


先週(5/25)に北朝鮮で核実験があった。
戦前のあの日本であれば「国体」維持のため、同胞が犠牲になろうとも躊躇なく新型兵器を使ったと思う。その感覚を知っている日本(人)こそ、北朝鮮の(ほんとうの)怖さが理解できると思う。そして「唯一の核兵器を使った国」と発言をしたオバマの米国に期待したい。
ところで、一時国会の議論をにぎわせた「非核3原則」は、今はどうなったとだろうか・・・。私は、国民が合意した「原則」であるなら、少なくとも2原則は憲法に入れるべきと考えていますが・・・。
あれれ、自分ながらこんなことを考えていたのか(書いてみて気が付きました)。実は、私は政治に無関心なのです。
  ★
昨日(5/30)は身近な人の中学の東京地区同期会。身近な人の中学は仙台の街中にある有名な中学(五橋中学)。東京の幹事はこまめな弁護士で、「遺産相続、離婚調停いろいろやります」とか、抜け目なく営業活動をやっているようだ。一方、私の中学は、その有名中学とかで乱暴な困りものが回されてくる吹き溜まりの中学(宮城野中学、吹き溜まりというのは当時の話)。ただ、私の実感では、そういうやつらも根はいいやつだ(席が隣だったので良く判る。もしかしたらその「悪」の抑止力の下にいただけなのかもしれないが)。他校から転校させられるほどの悪とは思わなかった。おそらく当時の悪は、今からするとかわいいものだったのだろう。また、中途半端に強い「悪」こそナイフを持っていたりして「怖い」というのをそこで知った。

それで昨日は、一人で買い物(SUNAMOというモール)に行き、厳命されているキムタクの番組をビデオ(DVDは持ってない)に録画し、カレーを創った。また、そのモールの本屋で本を購入。また、図書館で本とCDを借りた。以下はそのどうでもよい話。

●買った本
●日本的霊性/鈴木 大拙/中公クラシックス
西部戦線異状なし-鈴木
実は、岩波新書の「マックスウエーバー入門」を読んだので、ついでに「マックス・ウェーバーと近代」/ 姜 尚中/岩波現代文庫を買おうと思ったのですが、残念ながら置いていなかった。それで、前から読もうと思っていたこの本を購入。以前からシャーマニズム的宗教観を自称していても、それがなんだかよく理解していないので、「(日本的)霊性」というタイトルに興味を持っていたので購入。なお、私がこの本を読むのも、あくまでバッハを理解するためなのです。




西部戦線異状なし-音楽社会学序説●借りた本
●音楽社会学序説/Th.W.アドルノ/平凡社ライビラリー

これは、図書館で「マックス・ウェーバーと近代」を探して見つからず、代わりに借りた。テオドール・W・アドルノ(1903年-1969年)はドイツのユダヤ系の哲学者、社会学者、音楽評論家、作曲家。このような本があるのは以前から知っていましたが、「社会学という切り口で音楽を理解するのはできない」と思っていて敬遠していたが、マックスウエーバーを知って考えが変わった。また、この本のあとがきに「社会矛盾があるかぎり社会学は無くならない」という記述が気に入った。この評論には「軽音楽」というのも入っている。あの、ナチの時代を生きた著者の(多少時代遅れの)化石のような論文、ただ、軽音楽こそ保守的な型にはまった音楽というのは、鋭い指摘だし、高度大衆社会に対する批評は考えさせるところがあった。
詳細は(気が向けば後ほど)。

●借りたCD
●J.S.バッハアリア集/コジェナー
西部戦線異状なし-コジェナー
マグダレーナ・コジェナーはチェコのソプラノ歌手。けっこう有名な歌手らしい。聞いてみると確かに歌がうまい。しばらくiPodに入れて聞いてみようかと。








西部戦線異状なし-ダウランド●これも借りたCD
●暗闇にひそむ歌~ジョン・ダウランドの世界

図書館で見つけ、タイトルに惹かれて借りました。
このCDは、今はやりのピリオド楽器の古楽演奏ではないが、懐かしいダウランドの曲が新しい編曲で聴けるので、結構面白いという印象。また、ライナーノートに英文と訳が載っているのも良い。英語だから私でも判る。あとで、この詩をブログに覚え書きで書いておこうかと。また、iPodでしばらく聞いてみようかと。


収録曲
1. もう泣くな 悲しみの泉よ
2. 暗闇にぼくは住みたい
3. まことの涙
4. 沈黙の夜
5. さあ もういちど
6. 低い木にも梢はある
7. 流れよ わが涙
8. 来たれ 重い眠り
9. 珍品はいかが ご婦人がた
10. 流れよ わが涙
11. 今こそは別れねば
12. 悲しみの涙
13. 行け 透明な涙よ
14. 恋する者の涙


・・・ということで。
数日前に、天海祐希のTVドラマを見た。
「余計3兄弟」と「アラフォー」とか「アラサー」という言葉を思い出し、少し考えた。
そうすると,30超えは「オ(-)バサン(十)」
という冷え冷えとした話。
自分では大発見かと汗
  ★
昨日はキムタクの新番組「Mr.Brain」を見た。
最初だけでは判断できないと思いますが、残念ながら「いまいち」の感じ。
なお、スーパーでは「Brainパン」を売っていた。これはおいしかった。
彼の役は、事故で突然天才になり且つ女性に魅力を感じられない脳学者という設定。
それなら、結末はこの逆になるのだろう(たぶん)。
でも、身近な人が(いっしょうけんめい)見ているので、私も(付き合いで)見ることになるかと。

で、首記の本。

●マックス・ヴェーバー入門/山之内 靖/岩波新書西部戦線異状なし-ウエーバー
マックスウエーバー(1864年-1920年)に多少興味を持ったので、前回の続きを自分のために。
(改めて)この本の構成
プロローグ-近代知の限界点に立って
第1章 神なき時代の社会科学
第2章 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」再訪-悲劇の精神
第3章 精神の病-死と再生のドラマ
第4章 古代史発見-回帰する時間の社会学
第5章 受苦者の連帯に向けて

彼の簡単な生涯と著書
●第1期(1889年-1897年)
・中世商事会社史(1889年、学位取得)
・ローマ農業史(1891年、教授資格取得)
・父親と衝突。父親が家を出て自殺(1896年)
●第2期(1898年-1909年)
・神経症により大学に辞表提出(1898年)、正式辞任(1903年)
・イタリア療養(1903年)
社会科学および社会政策の認識の『客観性』(1904年、社会学の認識論に関する優れた論文らしい)
・プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(1904年-1905年、雑誌掲載)
・文化科学の論理の領域における批判的研究(1906年)
・古代農業事情大幅改訂(1909年)
●第3期(1910年-1920年)
・神経症から快癒した時期。
・世界宗教の経済倫理(1915年)
・ヒンドゥー教と仏教(1916年)
・古代ユダヤ教(1917年)
・職業としての学問、職業としての政治(1917年)

覚書
○彼は「比較宗教社会学」の元祖。
○wikipediaには、「彼の研究は、世界宗教の経済倫理として一般化され、古代ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教、儒教、道教などの研究へと進んだが、原始キリスト教、カトリック、イスラム教へと続き、プロテスタンティズムへ再度戻っていくという壮大な研究は未完に終わった。」と書いてある。ざっくりとみるとそうなのだろう。
○情念の力が持つ危険な盲目性を知りながら、やみがたい内奥の力で、既に出来上がった規範の外に飛び出していく。権利として社会に承認された行為でないがゆえに、誰にも責任を負わせることができず、自分一人がその重荷を一生負い続ける。
○これはニーチェの人間の罪を是認し、その罪により引き起こされる苦悩も是認する「悲劇でありながら悲劇そのものを喜びとする」るという「悲劇の倫理的基底」を書いた「悲劇の誕生」と共鳴する。
○あの世紀末の時代、一夫一婦制からの解放といったような宗教化したフロイト主義(という社会現象)を、近代的な権利の問題ではなく(宗教的規範から飛び越えざる追えない「人間」の)運命のレベルで共感を示した。ウエーバーはこれを「英雄的倫理」と言ったようだ。

以上が、この本の第3章「精神の病」のところ。
第4章「古代史再発見」では、マックスウエーバーの研究は「資本主義の倫理」から更に広がり、「国家資本主義と官僚制」などについても考察している。ここも(バッハと音楽、ついでに世紀末の音楽を知るのに)役立ちそうだ。あの時代、そして第一次世界大戦後の時代(今からみると第二次世界大戦前夜の時代)、それから100年後の現代、経済の仕組みが高度化し社会倫理は多少変わったが、結局50歩百歩なのが判った今、マックスウエーバーは今日的意味を持つのだろう(たぶん)。なお、彼の死後出された論文集の中に「音楽と社会」といったのがあった。一体、どんな内容なのだろうか。

(おまけ)
かれの論文「社会科学および社会政策の認識の『客観性』」の概要を書いたHPを見つけた。読んでみると、なかなか面白い。マックスウエーバーは、さすがに方法論をきちんと考え、そのうえで詳細、多岐にわたる考察に取り組んでいったのが判る。以下はその概要の一部の勝手な引用です。

科学的考察がなしうること
① 目的と手段の適合性の検証
② 行為の意欲された結果と、意欲されなかった結果との[相互]秤量
③ 意欲されたものの意義に関する知識の提供
④ 意欲された目的とその根底にある理想の批判的評価
科学的批判の目的
①方法上正しい科学的論証が達成されたら、シナ人によっても承認されねばならない。
②ある内容を論理的に分析し公理にまで遡り、他方、そうした理想の追求の帰結を解明する企てが首尾よく達成されたら、シナ人にも妥当しなければならない。

ここで「シナ人にも・・・」というのは「サルにも・・・」ということのようだ。すこしつらいが、当時の情報と理解では仕方が無いので非難するつもりはない。

・・・ということで。
図書館と喫茶店とスーパの買い物以外は出不精で(というか平日、サービス残業で働くので休日は疲れてしまい結果的にそうなる)、生の演奏を聞く機会が(きわめて)少なくなっている。それで(というわけでもないですが)最近、いろいろな方がブログで紹介されているU-tubeの演奏を聞いています。

そこでたまたまヒットしたのがビアソラのリベルタンゴ。

ライブなので、ミスもあるがこの演奏を聴いて刺激を受けた。早速、だいぶ前に900円で購入しほこりをかぶっていたギター楽譜(この演奏とほぼ同じ編曲)をひっぱり出して弾いてみた。そこそこ弾けるが、(私にとっては)楽譜の見た目より難しい。つまり、タンゴであるだけに、この曲の基本となるリズムを維持しつつ、全体を演奏するのが(とても)難しい。U-tubeの演奏はそのベースのリズムが良く表現されている(と思う)。

おなじU-tubeでヒットしたヨーヨーマ他の演奏を聞いてみた。

やはり、曲のシャープさはヨーヨーマ他の演奏の方が良い(もちろん、ギター独奏も悪くない)が、なんといっても、ギターで一人でこの曲が弾けるのはうれしい。ただ、ベースのリズムを残すためギターの運指が少し難しくなっている。手の小さい私にはつらいが、それでも、新たな刺激をもらい多少やる気になった(あとは気力がどこまで続くか)。なお、最後は協和音で終わるギター(ついそうしてしまうのは判る)より、ヨーヨーマのほうが断然よい。
  ★
でも、私にとってメインはやはりバッハか。そして、さらに年老いたら、シンプルなバッハの曲を、一人でゆっくり弾いていきたい。カザルスは最晩年には、バッハの無伴奏チェロ組曲5番(BWV1011)サラバンドを弾いていたらしい。カザルスは衰えたとき、この単純な旋律に何を感じ奏でたのだろうか。私もそれに習いたい。

で、首記の本の話。

●マックス・ヴェーバー入門/山之内 靖/岩波新書西部戦線異状なし-マックスウエーバー
5月の連休で1/3ぐらいしか読めなかったので、先週ある程度読んだ。
私は、マックスウエーバー(1864年-1920年)の本は、「職業としての学問」と「読書について」を読んだ程度で、彼の本業のほうの「社会学」には(きわめて)疎い。、今後も読むことは無いだろうと思っていたが、衝動買いしてしまった。読んでみて、J.S.バッハ関連で、キリスト教の本(特に宗教改革前後)やニーチェの本(悲劇の誕生)を最近読んだことが役立った(かも)。これもバッハのおかげか。この本は「入門」なので、さらに奥がある。なお、私の趣味は「(気が遠くなるほど深い)世の中」ではなく「バッハと音楽」なので気が楽です。ここで得た「キィワード」は、J.S.バッハを生みだしたヨーロッパを知り、一時信じていた「近代合理主義」の呪縛から離れるのに役立つと思う。

本の構成
プロローグ-近代知の限界点に立って
第1章 神なき時代の社会科学
第2章 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」再訪-悲劇の精神
第3章 精神の病-死と再生のドラマ
第4章 古代史発見-回帰する時間の社会学
第5章 受苦者の連帯に向けて

覚書
○純粋に宗教的な特徴を帯びた言説が、説教者たちの意図を越えた形で、経済的な行為の領域に影響を及ぼすという飛躍(逆説)、宗教的であるからこそ、その非合理的な心理的衝撃を介して、経済の領域における合理化へと向かう心理的機動力が与えられる。その不連続、あるいはパラドックスが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の主題。
○ルターは、1517年の「95ヶ条の論題」から始まった宗教改革の中で、「神に召された職業労働」という観点を、ドイツ農民戦争(1524年)のなかで、「現生の秩序に順応すべき」という伝統主義に戻っていく。むしろ、職業労働を「神からの招命」とする観点はカルビニズムによって意味づけられた。え~と、「予定調和説」の系統ということか。
○宗教改革の文化的影響の多くは、宗教改革の運動から生じた「予期せざる結果」、しかも「意図せざる、改革者の念頭にあった正反対の結果」だった。宗教改革の意味は、従来の合理的職業観(労働の目的を、この世において生をできるだけ豊かにすることという、幸福主義、快楽主義)から、修道院という切り離された特別な空間で行われていた「禁欲的で"合理的"な労働」を、日常の職業労働の場に開放したことにある。この職業観が、西洋近代の資本主義を発展させた。
○そして、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」では、カルヴィニズムの(非人間的)信仰が、資本主義精神へと結晶していくプロセスを分析している。
○つまり、え~と、それやこれやで、ウエーバーは、プロテスタントの牧師が、ルターやカルヴァンの教説を平易に信者大衆に行った説教そのものが、信者によって取り入れられる過程で、信者の(労働)精神中に生みつけたのが怪物「資本主義」ということ(らしい)。そしてこの「資本主義」には、「貴族的英雄的精神」によって立ち向かい得るとのことのようで、これはニーチェの「超人」に通じる。マックスウエーバーは、ニーチェの「悲劇の倫理的基底」を批判的に継承したとも解釈される(らしい)。
○ソビエト連邦崩壊以前は、このような宗教的精神が経済の下部構造を構成するという世界観は、弁証法的世界観のマルクス経済学者から徹底して批判されたが、このような「非合理的合理化」という解釈は、マルクスの「資本論」第3巻「個人資本における歴史的考察」にも近い分析があり、社会科学の世界ではマックスウエーバーとマルクスには相似性があるという評価になってきているらしい(ここらの理解は、間違っているかもしれないので、とりあえずこの本を読みなおしてみよう)。

で、何を言っているかわからなくなってきた。この本がマックスウエーバーの正統的解釈かどうかはわからないが、(私にとって)いろいろな引き出しが多い。結局、この本は「入門」であってももう1回読まないと、頭の中で整理できないようだ。章毎に覚書を(自分のために)整理してみようかと。

・・・ということで、今回はここまで。
明日(5/10)は母の日。身近な人は私の母親でもないのに、私からもプレゼントを要求する。実は今までその意味を考えたことが無かった。
それで、母の日について調べてみた。
  ★
○戦前は、昭和天皇の皇后の誕生日の3月6日
○戦後は、米国の母の日と同じ5月第二日曜日。
○米国の母の日の発端は、62万人が死んだというアメリカの南北戦争(1861年 1865年)。当初は反戦・平和という意味があった。
○1870年、女性参政権運動家ジュリア・ウォード・ハウ(1819年–1910年)が、夫や子どもを戦場に送るのを今後絶対に拒否しようと立ち上がり「母の日宣言」(Mother's Day roclamation)を発した。このジュリアの活動に影響を受けヴァージニア州出身のアン・ジャービス(1832年-1905年)も、戦時中の負傷兵の治療や公衆衛生の改善等の活動に積極的に取り組み、南北戦争後には、分裂した北部州と南部州の平和的和解のために「Mother's Friendship Day(母の友好日)」などの平和活動を続けた。
○ただ、これらの運動は広く普及することは無かった。
○1908年5月10日、アン・ジャービスの子供のアンナ・ジャービスが「亡き母を追悼」するためフィラデルフィアの教会で白いカーネーションを配った。これがアメリカの母の日の起源。
○この風習がアメリカ各州に広がり、1914年、アメリカ大統領だったウィルソンが5月の第二日曜日を母の日と制定した。なお、その意味は"motherhood in general and the positive contributions of mothers to society”であり、日本とは少し異なるようだ。
  ★
なるほど。そういうことだったのか。
おそらく米国でも「母の日」には既に「反戦」という意味は無いのかもしれない。もちろん世間一般の「(普通の)母」も「(普通の)父」と同じくらい立派だ。ただ、この「反戦」という意味は、やはり「母」にこそふさわしい。日本でも、この意味を多少でも残してほしい。
  ★
そういえば、アメリカのオバマ大統領がチェコで「唯一核兵器を使用した国として道義上の責任がある。核のない平和で安全な世界を目指す」」と言ったらしい。核兵器の抑止力の意義はソビエト連邦の崩壊で低下したという話もあり、米国の意図がどこにあり、どこまで本気なのか考える必要はあるが、「唯一核兵器を使用した国」という表現を使ったオバマさんを評価したい。
  ★
実は私は、これらのことを突き詰めて考えたことは無い。高校時代、わたしのクラスには「革マル」という学生運動の過激派がいたが、何を言っているかわからなかった。ただ、あの安部元総理の時代、TVなんかを見て「頭がよい人が、一つ一つ現実に基づき検証し論理を積み上げる程、その考えは右傾化する」と感じた。つまり、現実(それはそれでとても大事)は保守的であり強固である。それを不連続に飛躍させるのが「理想」であり「理念」なのかもしれない。これを抜きにして「現実」を変えることはできないのではないかと思う。なお、こんなの当たり前なのかもしれない。私の場合、肝心の「理想」が無いので、これ以上考えることができない・・・(あしからず)。

で、首記の話。

ブログつながりで、自分ではとうていたどり着けない(だろう)いろいろなU-tube画像を見ることができるのは素晴らしい。おかげでapple創業者のスピーチ(限定という言葉が大好エリーさん)とかヴィラ=ロボスの曲(五十雀さん)を聞くことができた。

上記の演奏を貼り付けておきます。

●アップル創業者の演説



●ブラジル風バッハ6番/ヴィラ=ロボス

この曲は、大学時代にレコードで聞いて衝撃を受けた曲です。これこそ「音楽」であり、このような演奏をする奏者はとても楽しいのではないかと思った。ただ、わたしのイメージではこの曲は、さいごの一瞬まで二人はスリリングなバトルを繰り広げないといけない。その意味でこのCDは少し物足りない。

・・・ということで。
昨日(5/4)郷里仙台からやっと帰ってきた。
5/2は高速道路史上特異な日になるのではないか。私の場合、東京-仙台約360kmで11時間かかった。想定外でした。私の考えが甘かった。ただ、時計汗は使ったが、お金が浮いた。なお、浮いたお金はすべて(介護で苦労している)義理の弟に渡した。
  ★
昨日の帰途車の中で、NHKFMで「ラ・フォル・ジュルネ」を聞いた。たしかにこれは「お祭り」だとおもうし、この企画が成功しているのはすばらしいと思う。なお、いちばんつまらなかったのが 村治佳織のギター。自分のことを棚にあげて言えば(音楽が無く)つまらない。あと10年ぐらいは待とうかと。今の音楽レーベルの企画が悪いのではないか。もっと地道にやってほしい。が、儲けるにはそうするしかないのかも知れないが・・・。

で、首記の本です。
音楽の本ではないが「人間」の本ではあるので、一応、私の趣味の範疇に入れておきます。

●企業文化―生き残りの指針/エドガー・シャイン/白桃書房
この本の著者シャインさんは米国の経営学の学者。彼は第9章の「結び」で「文化の視点を獲得するともっと謙虚になれる。その謙虚さから最良の知恵を身につける事が出来る。」と言っている。安易な「(企業)文化論」を戒めているようにも思えるし、その一方、「私の本を読めば大丈夫」という「悪魔のささやき」と見ることもできる。彼はリーダーシップの本なども出している(その道では)有名な人らしい。この手の本は以前ならまず読まなかったが、この本を読んでみて「(著者は)まじめな人」であり、良い本と思う。

著者エドガー.H.シャインの経歴
1928年生まれ。シカゴ大学学士号、スタンフォード大学社会心理学修士号、ハーバード大学社会心理学博士号取得。現在MITの大学院経営学名誉教授。朝鮮戦争の捕虜の洗脳の研究に従事。変な研究が発端でも、それを徹底すれば学問になるということだろう。

本の構成と簡単な覚書
以下は私の「覚書」。熟読して書いているわけではないので、いいかげんな理解もあるのであしからず。
第1章「企業文化はなぜ重要なのか」
・文化レベルの理解不足で失敗した事例がいくつか紹介されている。
・この本のキィワードの一つは”unlearning(学習棄却)”。成功体験が次の失敗を引き起こすということ。「変容」するにはunlerningが必要と、繰り返し説いている。
・個人の行動を説明するには、所属するグループの文化(サブカルチャー)まで探求しなければならない。
第2章「企業文化とはいったい何か」
・文化を理解しようとして単純化するのが最も危険な罠である。重要な側面を見落とす。文化は多層構造を持つ複雑な概念だ。これも繰り返し説いている。
・文化は3段階のレベル「人工物(artifacts)-標榜される価値(values)-背後に潜む基本的仮定(assumption)」を持つ。大事なのが最下層の「学習され共有化された暗黙の仮定」。「仮定」とは、その会社で使われる本音の発想法のこと。
・誤解を承知で言えば「安全最優先」といいながら「利益最優先」を目指すという「建前と本音」文化が想像される。私は、(難しいと思うが)両者は適正であれば相反しないと考える。
・魚が水を語れないのと同じように、組織のメンバーは自らの文化を説明できない。文化の最下層の「仮定」に新しい価値が(本当に)適合しないと、なにをやっても効果を発揮しない。前記の「建前と本音」文化では、効果は得られないということかと。
第3章「企業文化は何を基に築かれるか」、第4章「企業文化はどうすればアセスメントできるか」、第5章「スタートアップ企業における文化の創造、進化、変化」
・文化の構造を理解せず改革に着手し失敗した事例を挙げ、文化を理解するための観点が長々と書いてある。その方法を「実践的含意」としてまとめている。ここらは「ハウツー」物としても読める。
・著者が何度も言っているのは、文化は複雑な構造を持つのだから、簡略化せず多方面から地道に取り組まないと理解できない(ということ)。その手段は長くなるので省略。
第6章「変容-文化を学習棄却し再学習する」
・”transformation”を「変容」と訳している。最近トランスフォーマーという映画があるのでイメージしやすい。
・組織が変わるためには、"survival anxiety"(生き残れるかの不安)>"lerning anxiety"(学習する不安)となる必要がある(らしい)。そして"unlearning"(学習棄却)が必要だ(と言っている)。
第7章「成熟企業における企業文化の動態」
・成熟企業に対する「変容」について述べている。
第8章「文化が出会う時」
・2つの会社が合併するような場合につぃて分析している。
第9章「文化を真剣に考えるリーダーにとっての文化的現実」
・「組織文化の管理」を考えるとき、文化の深遠と強大さを十分認識しなければならない。
・文化とは、組織が対外的課題をこなし、内部に対処するなかで獲得してきた集団内で共有された暗黙の仮定。だから、(意図的に)新しい文化を「創る」ことはできない(つまり「結果によってのみ文化は創られる」ということか)。
・文化を表面的だけに理解することは、文化を全く理解しないことと同じくらい危険である。
・文化変革のためには「自ら文化の中で境界に身を置くこと」。
・新しいことを学習するには"unlearning"が必要。それには痛みと抵抗が伴う。
・なお、この本で明確に書いてないことがある。「文化はほうっとくと劣化する」ということ。ただ、「劣化防止」を"unlearning"と「transformation"という言葉で言っていて、同じ事なのかもしれない。
原著者 日本語版へのあとがき
「日本の管理者は、米国企業の仮定や価値観を取り入れるべきではない。日本の文脈のなかで分析してほしい」と言っている。そのとおりと思うが、「日本の文脈」とはなんだろうか。なお、米国文化を押し売りしないところは、さすが「企業文化」の著者と思う。
監訳者 解説(これが長い)

著者は、繰り返し「文化」の複雑さ、強固さを説いている。逆に言えば、「文化」は強固な構造を持っているので、容易に変わるものではなく、安易に変えようとしてはいけないということだろう。著者は、ほんとうに必要な時(のみ)に、「文化」を深くアセスメントし「変容」させるものと言っている。

前記で、私が読み飛ばし省略したところがこの本のメインと思う。要点のみ理解し判ったような気になることを、著者は戒めている。この問題にかかわる人は、そこを読み理解する必要があるだろう。
・・・ということで。
今日85/2)郷里に帰ります。
実は会社のほうは、業界でちょっとした新聞沙汰になっているのですが(不祥事ではない)、そんなことは(すっかり)忘れしばしの休養です。
5月連休の東京では、あのラ・フォル・ジュルネでバッハinヨーロッパで盛り上がっているようです。興味はありましたが次のJ.S.バッハ特集の機会(10年後あたり?)とし、今回は(義理の母の介護)帰省がメインです。残りは(喫茶店での)読書と音楽(多少のギター練習も入る)です。そういえば、昨年は、軽井沢に一泊二日で行って、個人の教会のようなドーム型(残響時間がなんと8秒)の家でポジティブオルガンを聞いたのがなつかしい。もう一度、そこで演奏を聞いてみたいと思っています(できればギターの演奏してみたいが・・・)。

で、首記の話です。
これら下記の本は、あとで読んだらブログに(自分のために)感想を書いてみようかと。
ブログに書くことは、少なくとも2回は読むことになり、(忘却力がついている)自分の頭にかすかながら何かを残すので、(私の)老化防止に役立っています。ただ、実は、ブログを書いているときには興味は次の本に行っています。それやこれやでやってます。なお、下記の本は、私の定義ではすべてJ.S.バッハの関連本と考えています。

西部戦線異状なし-グールド●グレン・グールド著作集1-バッハからブーレーズへ/グールド/みずず書房
台東区中央図書館で、なんとなく目にとまり借りました。グールド本は2冊ほど読んでいますが、グールド自身の本は読んでいないので、読んでみようかと。









●ピアニストが見たピアニスト-名演奏家の秘密とは/青柳いずみこ
西部戦線異状なし-青柳耐震補強で1年間休館していたが、やっと再開した江東区城東図書館で借りました。ここの駐車場は無料なので利用しやすい。
青柳さんは、確かによく調べて本を書いている。音楽評論家のなかには、ものすごい博識を使って、音楽でないことを書いて(私のような)一般の音楽愛好家を煙にまくような(詐欺師的)記事を書く人がいますが、この方はまっとうな地に足が付いた音楽評論家とおもう。
そうそう、思い出しましたが、吉田秀和(さん)が「小林秀雄の『モーツアルト』は、話は面白いがモーツアルトは書いない。」と言っていた(ようなきがする)。前記の詐欺師てき音楽評論とは、あんまり関係ないかもしれないが・・・。だいぶ忘れているので、小林秀雄の『モーツアルト』を読み直してみよう。

●マックス・ヴェーバー入門/山之内 靖/岩波新書 西部戦線異状なし-マックスウエーバー
マックスウェーバーの本は「職業としての学問」とか、「読書について」とか、彼の本業以外の本を読んでいますが、最近できた「砂町モール」の本屋さんでこの本を見つけ、面白そうなので自腹で購入。この本によると、アダム・スミスは価格という非人間的な指標で人間が作る市場のメカニズムを分析した(らしい)が、マックス・ウエーバーは行為を動機付けている文化的意味への共感と理解を中心にした行為論的アプローチを行った(らしい)。たしかに、こういう視点を持っていないと、あの「職業としての学問」なんかは書けない(と思う)。そして、この本では「怪物」資本主義の起源が宗教改革にあったと言っている(と思う)。



●企業文化―生き残りの指針/エドガー・シャイン
西部戦線異状なし-企業文化これを読んでいるからと言って、私が経営者というわけではありません。ただ、こういう観点で人間の集団である会社という組織を見てみるのも面白いと考えています。これも、企業文化→文化→・・・と我田引水で私の趣味につながるのですが、その逆の流れで何が抜けていくのか(実は、抜けたところが企業文化の深層構造を作るのかもしれない)。まずは、著者エドガーさんがこの「文化」に対してどんなアプローチを取るのか見てみよう。




たぶん、上記をすべて連休で読むには無理そうですが。
なお、私は江戸川区(荒川から東京寄り)の住人です。テリトリィは、江東区(砂町モール、東大島ダイエーなど)、墨田区(錦糸町)、台東区(河童橋界隈)と銀座です。台東区の図書館、江東区の図書館の方、「他の区でもいいですか」と聞いたとき、快く受け入れて頂いた「太っ腹」に感謝しています。
・・・ということで。
今度の連休で車で郷里仙台に帰ります。
心配は、麻生さんの景気対策で高速道路が1000円になったことによる交通渋滞。身近な人から「レール&レンタカーで行こう」という提案がありましたがお金には変えられません。体調を整え早朝移動の予定です。なお、TVニュースで「普段運転しない人も高速に入ってくるので更にあぶなくなっている」という話があった。お金ドキドキかといえば、答えは決まっているのですが・・・。

で、首記の話です。
バッハの音楽を聞きながらバッハ関連の本(私の定義はかなり広い)を読むのが私の趣味なので、その一環で、今は、私のお気に入りのogawa-JさんのHP湘南の音楽室”の研究論文"をプリントアウトし、ついでに関連する他の記事(小学館のバッハ全集の解説本など)なども参考にして読んでいます。

以下はその寄り道のほう。

●息子たちが伝えたバッハ作品/ペーターヴォルニー/バッハ全集15巻
この記事は、メンデルスゾーンのバッハ復興運動のはるか以前の、より古い時代のバッハ伝承者に焦点をあてている。私が特に興味を持っているヴィルヘルム.フリーデマン.バッハも、父J.S.バッハの作品の価値を認め大事に取り扱っていた。これは、今まで私が読んだJ.S.バッハの記事と違っていて新鮮だった。
記事の構成西部戦線異状なし-フr-デマン
○「受容史」のはじまり
○遺産分割と楽譜の流出
○楽譜伝承の問題点
○フリーデマンの手稿譜
○ハレのフリーデマン
○アルトニコルの筆写譜
○フリードリッヒの恣意性
○エマーヌエルの役割



ヴィルヘルム・フリーデマン.バッハ(1710年-1784年)
(以下は私自身のための覚書)
・J.S.バッハの最初の妻のマリア・バルバラの二番目の子供で長男。作曲家であり即興演奏家。
・1746年-1764年の約20年間はハレの貴婦人教会のオルガニストを務めるが、1764年以降は定職につかずベルリンで貧窮のうちに死んだ。彼の作品は多感様式として最近再評価されている。なお、J.S.バッハの作品にもその一端がうかがえるとの話もある。
・J.S.バッハの本で断片的に出てくるフリーデマンは、才能は認めるがJ.S.バッハの芸術を理解せず作品を散逸させたとしてその評価は「ぼろかす」だ。
覚書(抜き書き)
○「受容史」のはじまり
・J.S.バッハ死後、J.S.バッハの受容は18世紀後半はゲッテイェンゲン大学の音楽監督フォルケル(1749年-1818年)やベルリン合唱協会会長を務めたツエルター(1758年-1832年)の私的サークルの中で引き継がれたが、1750年から1780年の間は、歴史から忘れ去られた空白期間と言われていた。
・この間、バッハの伝承は、フリーデマン他のバッハの息子や弟子によって様々なサークルで地域的、超地域的に行われていた。
○遺産分割と楽譜の流出
・1750年11月の遺産分割の公文書には楽譜に関する記載がない。楽譜の分割はこれに先立ってJ.S.バッハ自身により家庭内で行われた(ようだ)。
・J.S.バッハは5年分のカンタータを年次ごとに整理して持っていた。第1年間~第3年間は相続はだいたい分かっている。第4年巻、第5年巻のほとんどは散逸した(らしい)。そして、フォルケルの「故人略伝」ではフリーデマンの相続分が失われたことが暗示され、それがフリーデマンに対する誹謗中傷を生んだ。
○楽譜伝承の問題点
・実際は、C.Ph.E.バッハの相続とされていた楽譜を、フリーデマンがハレの演奏会で使った証拠がある。兄弟は離れて暮らしていたが、かなり時がたっても兄弟間でオリジナルの楽譜の交換し助け合っていたのではないか(著者の推測)。
○フリーデマンの手稿譜
・著者は「フリーデマンが、金銭欲からJ.S.バッハの作品を売り飛ばしたようなことはなかった」と弁護している。
・フリーデマンは、分割相続で手に入れたカンタータのほぼすべてのオリジナル楽譜がベルリンに残っていたことが証明されている。彼が父J.S.バッハの相続楽譜(の価値をみとめ)を最後まで手元に保管していた。
・フリーデマンがJ.S.バッハの手稿譜を手放そうとしていたことを示す1778年の書簡が引き合いに出されるが、これでも、手に入りやすいテレマンの楽譜は売りに出したが、オリジナルのJ.S.バッハ手稿譜は一点も売られていない(と著者は言っている)。
・そして、フリーデマン自身の作品に対する精密さと細部に至る行き届いた完全主義者の姿勢は、J.S.バッハの作品のパート譜の作成にも配慮が見られる。
○ハレのフリーデマン
・フリードマンによるJ.S.バッハのカンタータ演奏には、J.S.バッハの作品に手を加えないという控えめな態度がある(一方、エマニュエルはその逆だった)。
・ハレの20年間、フリーデマンはJ.S.バッハのカンタータに(謙虚に)集中的・実践的の取り組んだことから、J.S.バッハ受容史のなかで軽視されるべきではない(著者の主張)。
○アルトニコルの筆写譜
・アルトニコルとは、フリーデマンの義弟でJ.S.バッハの直弟子。
○フリードリッヒの恣意性
○エマーヌエルの役割

以上、書き入れないがJ.S.バッハの息子や直弟子により、J.S.バッハの作品が意図的に選択され演奏されていたことが示されており、J.S.バッハ伝承がJ.S.バッハの死直後から連綿と行われてきたことが示される。

いつもながら、記述は不十分でまとまりがないですが、ここまでと。
この年になってビジネス書を読むことになるとは思わなかった。
ビジネス書はつまらないというかいいかげんという先入観があり(ベストセラーになった本は、当時の成功した企業をモデルに書いてあるのですが、その後、左前になった会社が多い・・・らしい)、会社に入って以来、一度もその手のコーナーに行ったことが無い(というとうそになりますが・・・)。そんな感じです。なお、最近「読んでいる」ビジネス書といっても、経営書ではなく企業文化といったやつです。

で、首記の話。

J.S.バッハが好きといっても人それぞれと思う。
オルガン曲、教会カンタータ、無伴奏のソロ曲、チェンバロ等、管弦楽、そしてリュートいろいろある。私の場合、J.S.バッハは高校時代のギターから入ったのですが、実はいまだにJ.S.バッハの全体が見えない。それで、下記のようなことを(気楽に)やっています。どこが面白いか・・・。というと、面白いのです。

①J.S.バッハの作品全曲を(気長に)聞く
②図書館を含め手に入るJ.S.バッハの本を読む
③J.S.バッハの背景となる中世の歴史を調べる
④当時のヨーロッパの事情を知る
⑤J.S.バッハの生い立ちをなぞる
⑥キリスト教を知る


それやこれやで、なんとなくその輪郭が見えてきつつあると思っているのですが、上記のアプローチで欠けていることがある。J.S.バッハ自身の「音楽」と「思想」です。
この参考となる「論文」らしきものをHPで発見したので、先週の出張先で読みました。そして、自分の理解がまだまだであり、バッハははるか遠くにあるのが判った。と同時に、この「神秘主義」が、シャーマニズム的多神教的宗教観を持つ私の琴線にふれるのではないかとも思う。

●「J.S.バッハの信仰とキリスト教神秘主義」津田能人
西部戦線異状なし-論文著者の経歴
武蔵野音楽大学オルガン科に入学し、秋本道雄氏に師事。同大学卒業後、ドイツ政府給費留学生(DAAD)として国立ケルン音楽大学に入学し、ペーター・ノイマン氏に師事。同志社大教会オルガニスト。
この方の演奏は、同志社大のHPから聞くことができる。何曲か聴かせて頂いたが、教会で聞くともっと素晴らしいと思う。
構成
はじめに:本題の意味
1.バッハの音楽言語
2.バッハの宗教環境
3.バッハとルター、ドイツ神秘主義
4.バッハの作品の中に見られる神秘主義的音楽言語法

覚書(抜き書き)
はじめに:本題の意味
○多くの音楽学者は、バッハの信仰はルター派正統主義と主張する。勿論そうだが、両親や兄弟の別れを小さいころに経験したバッハの生涯の中に、ドイツ神秘主義が通低する特別な神経験があった(これが、著者津田さんの仮説)。
1.バッハの音楽言語
○バッハび音楽言語の究明は、音楽学者、美学者の暇つぶしではなく、バッハを演奏する音楽家にとって必須の勤めである。モティーフの意味を理解しないと、楽曲を正しいテンポや正しい強勢法で再現することは不可能になる。そして、バッハの音楽言語を把握するには、彼の信仰を理解することが必要である。
○前記の考えは、バッハが(まじめな)敬虔なルター派プロテスタントだった場合に正論となる(「そうでもなかった」という話もある)。その行き着くところは「クリスチャンでなければバッハは弾けない」となると思う。「そんなのどうでも良い」のか「よくない」のか・・・。少なくともバッハの信じた宗教には敬意を払おうと思う。なんせ、私はバッハによって音楽を理解しようと思っているので。
2.バッハの宗教環境
○ここでは、宗教環境という切り口で、ミュールハウゼン(1707年-1708年)、ヴァイマール(1709年~1717年)、ケーテン時代(1717年-1723年)、ライプツィッヒ(1723年-1750年)が書かれている。
○バッハの怒りやすさと頑固さは弁護の余地も美化の余地もない。いつも手遅れになってから、自分の権利に思い至っては、独善的に突進し、些細なことも大きないざこざにしてしまう。しかし、彼は正直で曲がったことはできない人間であった。
3.バッハとルター、ドイツ神秘主義
○シュバイツアー(1875年-1965年)は「結局のところ、ルター派正統信仰もこの楽匠の本当の宗教ではなかった。彼の本当の宗教は神秘主義だ。バッハのもっとも内奥の本質に従えば、彼はドイツ神秘主義の一現象である」と言っている。
○著者津田さんは「この神秘主義とは、シャーマニズム的魔術的な神秘主義ではなく、キリスト教的神秘主義だ」とか「(キリスト教的神秘主義とは)神に対する直接的神秘主義ではなく、神の子キリストとの神秘的な交わりによって媒介される現実」とか言っている。キリスト教ではない私には、その真意は想像するしかない。
○Wikipediaでは「神秘主義とは知性による以前に、心によって至高なる存在を知ること」と書いてある。私にとって、キリスト教神秘主義を理解するのは難しくとも、このアプローチが「音楽」に通じるのではないかと想像できる・・・。とりあえず、これ以上の安易な解釈は差し控えたい。
4.バッハの作品の中に見られる神秘主義的音楽言語法
疲れたので省略。

・・・ということで。
でも、この論文、結構参考になった。また、津田さんと言う人を知ることができ、バッハ演奏に対するアプローチの一つを知ることができたのは良かった。