大田区の御嶽山で生まれ
昭和40年に大田区役所の目の前の郵便局からビルの中の細い路地を抜けたアパートに引っ越した。
コンクリート作りだったが、既に20年以上は経っていたかな~
窓枠が分厚い鉄製で開け閉めには怪力が要り、曇りの型ガラスに鉄の網が中に入っていた。
ガラス内部の網は、防犯用ではなく、火事の時にガラスが割れて落ちてこない為で、
後にアルミサッシに交換された時は祖母も喜んでいた。その時の祖母より僕は年を取ってしまった~
先日、久しぶりに行ったら まだ建っていた。恐らく築80年位
懐かしい、2階のベランダから祖母が顔を出しそうだった。
向かいに木造の長屋(8世帯)が建っていて、手前に井戸があり そこでおばさん連中が屯していた。
右横には、巨大な広っぱがあり、野球場4つ分くらいの広さでよく遊んだ。数年後、大きなマンションが建つ。
その広っぱに1本柿の木があり、仲間と登ってやっと採って食べたら渋柿で・・・なんてことも
長屋に住んでいたコウちゃん当時高校1年を筆頭に下は2歳くらいまでの子供たちでよく遊んだ。
『ハリスの旋風』の様な下町の鼻垂らしの子供の様に10人くらい自然に集まる。
当時は青鼻を垂らしている子は、クラスに2・3人はいたよね。鼻炎なんか普通だったのかも?
6年生まで男子は半ズボンだった。冬は今より寒かった気がする。薄着だから?
祖母が家事を熟していたので、家庭の味は祖母の料理だった。
祖父は沖縄で戦死した為、祖母が3人の娘(母姉妹)と孫の私と4人の育ての親だった。
風邪をひかないとヨーグルトは食べることができない時代
誕生日だけミリンダとペプシが飲める時代。栓の中に当たりがあると10円、20円、50円と見つけるのが楽しかった。
祖母が作った味噌汁のバリエーションの中でも『玉ねぎの味噌汁』と『かぶの味噌汁』が好きだった。
先日スーパーで新鮮な『かぶ』を見つけ
浅漬けと味噌汁を作った。
葉っぱも全て食すことができる。大根と違って変な癖が無いので『かぶ』は良い
日本の農業を捨てた政府、もう完全に手遅れだ。元に戻れない。
あと十年もすれば、日本の『かぶ』の葉っぱまで食べる事の出来る料理など高値で贅沢なものとなってしまうんだろうな~
そんな事、必要ないと思う若者となってしまうのも寂しいもんですね~
味噌汁と浅漬け、かぶの根と葉っぱだけですが、美味しく頂きました。