時々日本語は使いにくい | フィリピン・アラバンのななつことば
去年こんなブログを書いた。





今年やりたいことに思いを馳せていると、ひとつ気づいた。




本当の本音を話せるのは、日本のバックグラウンドのない外国語を話す相手のような気がする、私の場合。



変な色眼鏡で見られないような気がして、安心できるから。


フラットに話を聞いてもらえるような気がするから。



今思えば、あれはカウンセリングのようなものだったような気がする。




だから私は外国人に囲まれているとちょっとホッとするのだ。


アドバイスも素直に聞けるのだ。


共通認識なんて全くない方がラクなこともあるのだ。





そして私の場合、母語の日本語だと「言い過ぎて」しまうのだ。


外国語だと若干の不自由さがあるおかげで少し抑制が効くのだ。たぶん。



所詮、第二言語だから、非ネイティブだから言い間違って当然だし。


言葉尻ではなく、意味をとってもらえるから。




日本語でのコミュニケーションでは、普段は受け取る量と出す量を調節してなんとかやっているけれど、オーバーロードすると調節機能が壊れる。



主語をぼかすことのできる日本語は時々使いにくい。


日本語でこんなことを書いていることに矛盾を感じるのだけれど。




だってそうなのだ、私の場合。





写真の方が本物よりよく見えることが時々あるのが不思議。