3月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。

 意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。

 

 3月 拝読  「在家尼女房 (ざいけあまにょうぼう)」 の御文 (第五帖 第三通)

 【原 文】

 それ、在家の尼女房たらん身は、なにのようもなく、一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、後生たすけたまえともうさんひとをば、みなみな御たすけあるべしとおもいとりて、さらにうたがいのこころ、ゆめゆめあるべからず。これすなわち弥陀如来の御ちかいの他力本願とはもうすなり。このうえには、なお後生のたすからんことの、うれしさありがたさをおもわば、ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、となうべきものなり。 あなかしあなかしこ。

 

 【現代語訳】

  さて、在家生活のなかで仏門をこころざす女性は、何のはからいもなく、一心一向に阿弥陀仏を深くおたのみ申し上げ、後生(ごしょう)をおたすけくださいとおすがりすれば、そのような人をみな仏はおたすけくださるに違いないと思い、決してそれを疑うこころがあってはなりません。これをすなわち、弥陀如来がお誓いくださった他力本願というのです。このうえには、後生のたすかることの嬉しさありがたさを思うにつけても、ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、と称えるべきです。あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。

 願栄寺広報紙 「福峯だより」 2月号の発行準備を進めています。

 ご門徒皆さまのお手元にお届けするまで、しばらくお待ちください。

 2月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。

 意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。

 

 2月 拝読  「八万法蔵 (はちまんほうぞう)」 の御文 (第五帖 第二通)

 【原 文】

 それ、八万の法蔵をしるというとも、後世(ごせ)をしらざる人を愚者(ぐしゃ)とす。 たとい一文不知(いちもんふ ち)の尼入道(あまにゅうどう)なりというとも、後世をしるを智者(ちしゃ)とすといえり。 しかれば、当流のこころは、あながちに、もろもろの聖教(しょうぎょう)をよみ、ものをしりたりというとも、一念の信心のいわれをしらざる人は、いたずら事なりとしるべし。 されば聖人の御(おん)ことばにも、「一切の男女(なんにょ)たらん身は、弥陀の本願を信ぜずしては、ふつとたすかるという事あるべからず」とおおせられたり。 このゆえに、いかなる女人(にょにん)なりというとも、もろもろの雑行(ぞうぎょう)をすてて、一念に、弥陀如来今度の後生(ごしょう)たすけたまえと、ふかくたのみ申さん人は、十人も百人も、みなともに弥陀の報土に往生すべき事、さらさらうたがいあるべからざるものなり。 あなかしあなかしこ。

 

 【現代語訳】

 さて、釈尊(しゃくそん)の説かれたあらゆる教えを知り尽くしたとしても、後生(ごしょう)の一大事についての心得がなければ愚者(ぐしゃ)といい、一方、たとえ文字もよめないような在家の尼であっても、後生の一大事について心得ていれば、その人を智者(ちしゃ)というのだと言われています。 ですから当流のこころでは、つとめて多くの聖教(しょうぎょう)を読み、もの知りになったとしても、一念の信心のいわれを知ることがなければ、それも役に立たないのだと心得てください。それゆえ、親鸞聖人の御言葉にも、「どのような男性も女性も、弥陀の本願を信じなければ、決してたすかるということはありません」と仰せられているのです。 ですから、どのような女性であっても、さまざまな雑行を捨てて、一念に、弥陀如来よ、この度の後生をおたすけくださいと深くおたのみ申し上げるならば、十人も百人も皆ともに、弥陀の報土へ往生できるのです。 そのことを決して疑ってはなりません。 あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。