10月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。

 意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。

 

10月 拝読  「経釈明文」の御文 (第五帖 第二十一通)

 【原 文】

 当流の安心(あんじん)というは、なにのようもなく、もろもろの雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)のこころをすてて、わが身はいかなる罪業(ざいごう)ふかくとも、それをば仏(ぶつ)にまかせまいらせて、ただ一心に、阿弥陀如来を一念にふかくたのみまいらせて、御(おん)たすけそうらえともうさん衆生をば、十人は十人、百人は百人ながら、ことごとくたすけたもうべし。これさらにうたがうこころつゆほどもあるべからず。かように信ずる機を、安心をよく決定(けつじょう)せしめたる人とはいうなり。このこころをこそ、経尺(きょうしゃく)の明文(めいもん)には、「一念発起(いちねんほっき) 住正定聚(じゅしょうじょうじゅ)」とも、「平生業成(へいぜいごうじょう)の行人(ぎょうにん)」ともいうなり。さればただ弥陀仏を一念にふかくたのみたてまつること肝要(かんよう)なりとこころうべし。このほかには、弥陀如来のわれらをやすくたすけまします御恩のふかきことをおもいて、行住座臥(ぎょうじゅざが)につねに念仏をもうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

 【現代語訳】

 当流の安心(あんじん)というのは、何のはからいもなく、さまざまな雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)をたのみとするこころを捨て、我が身はどれほど罪業の深い身であっても、それをすべて仏におまかせし、ただ一心に阿弥陀如来を一念に深くおたのみ申し上げて、おたすけくださいとおたのみするならば、そのような衆生を十人は十人ながら、百人は百人ながら、ことごとくおたすけくださるというものです。このことをほんの少しでも疑ってはなりません。このように信じる衆生を、安心をよく決定(けつじょう)した人というのです。このこころを経釈(きょうしゃく)の文(もん)には、はっきりと「一念発起(いちねんほっき) 住正定聚(じゅしょうじょうじゅ)」 (『浄土論註』意) とも、「平生業成(へいぜいごうじょう)の行人」とも言っております。それゆえ、ただ弥陀仏を一念に深くおたのみ申し上げることこそが肝要なのだと心得てください。このほかには、弥陀如来がわたくしたちをたやすくおたすけくださるその御恩の深いことを思って、日常いかなるときであれ常に念仏申すべきであります。なかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。

 願栄寺広報紙 「福峯だより」 9月号の発行準備が調いました。

 ご門徒皆さまのお手元にお届けするまで、しばらくお待ちください。

 9月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。

 意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。

 

 9月 拝読  「阿弥陀如来本願」 の御文 (第五帖 第十五通)

 【原 文】

 夫(それ)、弥陀如来の本願ともうすは、なにたる機の衆生をたすけ給(わまう)ぞ。又いかように弥陀をたのみ、いかように心をもちてたすかるべきやらん。まず機をいえば、十悪・五逆の罪人なりとも、五障(ごしょう)・三従(さんしょう)の女人なりとも、さらにその罪業(ざいごう)の深重(じんじゅう)に、こころをばかくべからず。ただ他力の大信心一(ひとつ)にて、真実の極楽往生をとぐべきものなり。されば、その信心というは、いかのようにこころをもちて、弥陀をばなにとようにたのむべきやらん。それ、信心をとるというは、ようもなく、ただもろもろの雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)自力なんどいうわろき心をふりすてて、一心にふかく弥陀に帰するこころのうたがいなきを、真実信心とはもうすなり。かくのごとく一心にたのみ、一向にたのむ衆生を、かたじけなくも弥陀如来はよくしろしめて、この機を、光明をはなちてひかりの中におさめおきましまして、極楽へ往生せしむべきなり。これを、念仏衆生を摂取したまうということなり。このうえには、たとい一期(いちご)のあいだもうす念仏なりとも、仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)の念仏とこころうべきなり。これを、当流の信心をよくこころえたる念仏行者というべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

 【現代語訳】

  さて、弥陀如来の本願というのは、どのような衆生をおたすけくださるのでしょうか。また、どのように弥陀をたのみとし、どのようにこころがけておたすけにあずかるのでしょうか。まず衆生についていえば、十悪・五逆の罪人であっても、五障(ごしょう)・三従(さんしょう)の女人であっても、決してその罪業(ざいごう)の深く重いことにこころをかけてはなりません。ただ他力の大信心一つばかりで、真実の極楽への往生を遂げることができるものなのです。つまり、その信心をとるというのは、何のはからいもなく、ただ様々な雑行(そうぎょう)や雑修(ざっしゅ)、自力などをたのみとする悪いこころを振り捨てて、一心に深く弥陀に帰依するこころに疑いのないものを真実の信心と言うのです。このように一心にたのみ、一向にたのむ衆生を、かたじけなくも弥陀如来はよくお知りになり、この衆生を放たれた光明の中におさめおかれ、必ず極楽へと往生させてくださるのです。これが、念仏の衆生を摂取されるということなのです。このうえには、たとえ一生の間に申す念仏であっても、それは仏恩に報謝するための念仏であると心得なければなりません。これを当流の信心をよく心得た念仏行者と言うのです。あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。