2月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。

 意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。

 

 2月 拝読  「八万法蔵 (はちまんほうぞう)」 の御文 (第五帖 第二通)

 【原 文】

 それ、八万の法蔵をしるというとも、後世(ごせ)をしらざる人を愚者(ぐしゃ)とす。 たとい一文不知(いちもんふ ち)の尼入道(あまにゅうどう)なりというとも、後世をしるを智者(ちしゃ)とすといえり。 しかれば、当流のこころは、あながちに、もろもろの聖教(しょうぎょう)をよみ、ものをしりたりというとも、一念の信心のいわれをしらざる人は、いたずら事なりとしるべし。 されば聖人の御(おん)ことばにも、「一切の男女(なんにょ)たらん身は、弥陀の本願を信ぜずしては、ふつとたすかるという事あるべからず」とおおせられたり。 このゆえに、いかなる女人(にょにん)なりというとも、もろもろの雑行(ぞうぎょう)をすてて、一念に、弥陀如来今度の後生(ごしょう)たすけたまえと、ふかくたのみ申さん人は、十人も百人も、みなともに弥陀の報土に往生すべき事、さらさらうたがいあるべからざるものなり。 あなかしあなかしこ。

 

 【現代語訳】

 さて、釈尊(しゃくそん)の説かれたあらゆる教えを知り尽くしたとしても、後生(ごしょう)の一大事についての心得がなければ愚者(ぐしゃ)といい、一方、たとえ文字もよめないような在家の尼であっても、後生の一大事について心得ていれば、その人を智者(ちしゃ)というのだと言われています。 ですから当流のこころでは、つとめて多くの聖教(しょうぎょう)を読み、もの知りになったとしても、一念の信心のいわれを知ることがなければ、それも役に立たないのだと心得てください。それゆえ、親鸞聖人の御言葉にも、「どのような男性も女性も、弥陀の本願を信じなければ、決してたすかるということはありません」と仰せられているのです。 ですから、どのような女性であっても、さまざまな雑行を捨てて、一念に、弥陀如来よ、この度の後生をおたすけくださいと深くおたのみ申し上げるならば、十人も百人も皆ともに、弥陀の報土へ往生できるのです。 そのことを決して疑ってはなりません。 あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。

願栄寺広報紙 「福峯だより」 1月号の発行準備が調いました。

大変遅くなり申し訳ありません。

ご門徒皆さまのお手元にお届けするまで、しばらくお待ちください。

新年1月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。

意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。

 

 1月 拝読  「末代無智 (まつだいむち)」 の御文 (第五帖 第一通)

 【原 文】

 末代無智の、在家止住(ざいけしじゅう)の男女(なんにょ)たらんともがらは、こころをひとつにして、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、さらに余(よ)のかたへこころをふらず、一心一向に、仏たすけたまえともうさん衆生をば、たとい罪業は深重(じんじゅう)なりとも、かならず弥陀如来はすくいましますべし。 これすなわち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。 かくのごとく決定(けつじょう)してのうえには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。

 

 【現代語訳】

 末代の世の智慧なき在家生活者は、男性も女性もただこころを一つにして、阿弥陀仏を深くおたのみ申し上げるのがよいでしょう。 決して他の仏菩薩等にこころを振り向けることなく、一心一向に阿弥陀仏よ、おたすけくださいとおたのみする衆生を、たとえ罪は深く重くとも、弥陀如来は必ずお救いくださるのです。 これがすなわち、第十八願の念仏往生の誓願のこころなのです。 以上のごとく信心が決定したうえには、寝てもさめても、命のある限りは、称名念仏すべきであります。 あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。