5月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。

 意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。

 

 5月 拝読  「信心獲得 (しんじんぎゃくとく)」 の御文 (第五帖 第五通)

 【原 文】

 信心獲得(ぎゃくとく)すというは、第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるというは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆえに、南無と帰命する一念の処(ところ)に、発願回向(ほつがんえこう)のこころあるべし。これすなわち弥陀如来の、凡夫(ぼんぶ)に回向しましますこころなり。これを『大経』には「令諸衆生功徳成就(りょうしょしゅじょうくどくじょうじゅ)」ととけり。されば無始巳来(むしいらい)つくりとつくる悪業(あくごう)煩悩を、のこるところもなく、願力不思議をもって消滅するいわれあるがゆえに、正定聚不退(しょうじょうじゅふたい)のくらいに住(じゅ)すとなり。これによりて、煩悩を断ぜずして涅槃をうといえるは、このこころなり。此義(このぎ)は当流一途(いちず)の所談(しょだん)なるものなり。他流の人に対して、かくのごとく沙汰あるべからざる所なり。能々(よくよく)こころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

 【現代語訳】

  信心を得るというのは、弥陀の第十八願を心得ることをいいます。そして、この願を心得るというのは、南無阿弥陀仏の意味合いを心得ることをいいます。つまり、南無と帰命(きみょう)する一念のところに、発願回向(ほつがんえこう)のこころがあるのです。すなわちこれは、弥陀如来が凡夫に功徳を回向してくださるこころです。これを『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』には「令諸衆生功徳成就(りょうしょしゅじょうくどくじょうじゅ = 諸々の衆生に功徳を満足させる)」と説いています。そこで、はるか遠い昔よりつくってきたすべての悪業(あくごう)や煩悩を残すことなく、不思議なる願力のおはたらきによって消してくださる道理があることとなって、正定聚不退(しょうじょうじゅふたい)の位(くらい)につくことができるのです。したがって、自らの力で煩悩を断じることなく涅槃(ねはん)を得るというのは、この意味合いをいうものなのです。この教えはただ当流において談ずるものです。他流の人に対して、これについてあれこれ論ずるべきではありません。よく心得てください。あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。

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ご門徒皆さまのお手元にお届けするまで、しばらくお待ちください。

 

 4月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。

 意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。

 

 月 拝読  「抑男子女人 (そもそもなんしにょにん)」 の御文 (第五帖 第四通)

 【原 文】

 抑(そもそも)、男子(なんし)も女人(にょにん)も、罪のふかからん輩(ともがら)は、諸仏の悲願をたのみても、いま  の時分(じぶん)は末代悪世なれば、諸仏の御(おん)ちからにては中々(なかなか)かなわざる時なり。これによりて、阿弥陀如来と申奉(もうしたてまつ)るは、諸仏にすぐれて、十悪・五逆の罪人を、我たすけんという大願をおこしましまして、阿弥陀仏となり給えり。この仏をふかくたのみて、一念、御(おん)たすけ候えと申さん衆生を、我たすけずは正覚(しょうがく)ならじとちかいまします弥陀なれば、我等(われら)が極楽に往生せん事は、更(さら)にうたがいなし。このゆえに一心一向に、阿弥陀如来たすけ給えと、ふかく心にうたがいなく信じて、我身(わがみ)の罪のふかき事をば、うちすて、仏にまかせまいらせて、一念の信心さだまらん輩(ともがら)は、十人は十人ながら、百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと、更(さら)に、うたがいなし。このうえには、なおなお、とうとくおもい奉らんこころのおこらん時は、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、時をもいわず、所をもきらわず、念仏申(もうす)べし。これをすなわち仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)の念仏と申(もうす)なり。あなかしこ、あなかしこ。

 

 【現代語訳】

  さて、男性であれ女性であれ、罪の深い者は、諸仏の悲願をたのみとしても、今の時節は末代の悪世ですので、諸仏のお力ではなかなか容易に救われません。そういうわけで、阿弥陀如来と申し上げるお方は、諸仏に超え勝れて、十悪・五逆の罪人をわたくしがたすけようという大願を起こされて、阿弥陀仏となられたのです。この弥陀は、われを深くたのみとし、一念おたすけくださいと申す衆生をたすけないうちは、わたくしも成仏しまいとお誓いくださったのですから、わたくしたち衆生が極楽に往生することは決して間違いありません。ですから一心一向に、阿弥陀如来よ、おたすけくださいと深くこころに疑うことなく信じ、我が身の罪の深いことに煩(わずら)わされずに仏におまかせし、一念の信心を定めるような人は、十人ならば十人ながら、百人ならば百人ながらみな浄土に往生することは、断じて疑いのないことなのです。このうえに、さらに尊く思うこころが起こるときには、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、時も所も選ぶことなく念仏申すのがよいでしょう。これをすなわち、仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)の念仏というのです。あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。