私の軽い自己紹介
こんにちは、こんばんは!久しくブログの方を更新していなかったので自己紹介しときます!
私は現在都内私大に通っている新大学1年生です。
ブログを書き始めた頃は高校2年?ぐらいだったんですが、気づいてみれば早いもんでもう大学1年生なんですよね笑。大学受験の結果についてなのですが、おかげさまで国立私立両方とも合格できました!ですので何か大学受験のことで質問などありましたらコメント欄などでできる限り対応いたします!←なんか宣伝みたいになっちゃいましたね笑
タイトルについて
読者様の中には『自分の希望通りの大学に合格して華の大学生活を送っているだろうに…どうしてこんな物騒なタイトルを…』と思っていらっしゃる方がいるかもしれません。そこで、ここでタイトルの説明をしたいと思います。タイトル通り私は“奴隷“であるという事です。
自由と奴隷の二項対立
『何言ってんだこいつ…』って思われたそこのあなた🫵えぇ、ごもっともです!私もこのブログを書いている当事者でありながら何言ってんのか実はよく分かってません笑。読者の皆様に文章を書きながら思考の整理をしようとしてるわけです←ごめんねw
さぁ、ではなぜ私が奴隷と言えるのか?行動できないからです。別に物理的に移動を制限されてるわけでもない。ただ“動けない“んですよ。なぜか?自分自身の中に成長を重ねるにつれて歪な視線を内在化させてしまったから。自分自身に常に監視されてるんですよ。皆さんだって経験があるはずなんですよ。例えば何か行動をするときに『この行動変じゃないかな…いや、やっぱり周りから見たらおかしいよな…やめようこんなこと』みたいなことを思ったことがあるはずです。その一歩を踏み出していれば何かが変わっていたかもしれない…でももう戻れない…2度と…戻れないんですよ?
ある種の可能性をその時点で摘んでるわけです。
もちろんこの問題の原因を他者の価値観や社会の規範に転嫁することもできるかもしれない。ただそれができるのは未だぬるま湯に浸かっている人しかできない。自由になりたいと言ってぬるま湯から出てしまった“自由“の鋭利さを知らない未熟な少年少女にはもうできないのだ。一度薔薇のようにトゲがあって、しかし魅惑的であるような“自由“の味を知ってしまってはもうぬるま湯には戻れない…
そんな彼らにとって、彼ら自身が肥やした歪な視線によって監視され、何も行動できずにただ日々を惰性に過ごすことはただ生かされてるだけ、即ち“奴隷“と感ぜられても仕方ない事なのだ。私は今この段階にいる。皮肉にも自由を求めた私は自由によって私自身の奴隷に成り果てたのだ。自由に憧れた、まだ純粋無垢だったあのときの私に言ってあげたいのだ…ぬるま湯に浸かっていれば楽だと…苦しむこともなく、世界の悲惨さや残酷さに気づくことなく生を終えることができるであろうと、、、、
でも、もう戻れない。“自由“という幻想じみたモノに取り憑かれてしまってはもう…
おわりに
私は何を頼りに、何を信条に、何の為になら死ねるのか。いつも考えている。こんなことなら何も知らなければ楽だったのかもしれない、、、
ここまで読んでくれた読者様へ。あなたは“奴隷“ですか?それとも“自由“ですか?さぁ?どちら?