昨日は、友達に会うことの大切さを再確認できた日でした

 

私が必死こいて勉強して学びたくもないのに大学に入学したことに無理やりにでも意味を見出すなら、それはこういう友達に出会うためだったのだと言われれば頷けるというくらいに、彼女たちとの出会いは私にとってとても大きい。

だからね、大学がオンライン授業の今、大切なものを毎日失っている感覚から抜け出せないのです。

 

逸れた

 

「世の中のものさしと自分のものさしがずれてるから生きづらいんだよね」

 

と、唐突に友達の一人に言われたのですよ

 

「自分が望むことと社会が望むこと、自分がいいとすることと社会がいいとすることがずれてるみたいなの」

 

って。

 

でも、私はそれ聞いて思ったのは、生きづらいのは合わせようとするからじゃないかなって。

そもそもね、社会にとっての善悪というのは、結局のところ社会にとって利益があるか損失があるかで決まっているのであって、

そこに心はない。

少なくとも私には感じられない。

たとえば、人を殺すのはなぜダメか、と考えたとき、

善悪がものさしになっているというより、社会にとってコミュニティの喪失というのは大きな損失であるからというだけ。

 

 

社会に自分を順応させようとすればするほど機械人間になっちゃうだけだなと思うのです。

 

 

私は、社会に順応できないという点でのみ、自分が好きだと言い切れる。

生きづらいけど、たくさん毎日嫌なことで溢れてるけど、それは周りが狂ってるから。

 

ずれているところこそが誇るべき人間らしさだと思う。

 

だから、生きづらい人はみんな綺麗な人たちだよ。

心のない社会と、明らかに考えの偏った生き物たちのうごめく空間で、絶滅危惧種として踏ん張っていく、

私が仲良くできる人は仲間と認識しながら。

信じられるのは自分だけ。


 

とっても自分を中心に世界が回っているような考え方だけど、これで生きやすくなるならいい。



こんな深いことを話せる友達がいる自分を私は誇りに思う。


このコミュニティでなら生きやすい、という場所、そこはきっとモノクロの泥だらけの社会で唯一光が差す鮮やかな場所だから、、


実生活であっても、SNSであっても、その透き通った場所を大切にしていきたい