いやあ、まいりました。

映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』、めちゃくちゃ面白かったんですよね。

 

じつは私、映画より先に原作小説を読んでいました。

これがもう、冒頭から最後までとにかく面白かった。

 

だからライアン・ゴズリング主演で映画化されると聞いたときも、

もちろん楽しみではあったんです。

でも同時に、

「原作があれだけ面白かったのだから、

映画があの面白さを超えることはないだろうな」

とも思ってしまったんですよね。

 

原作を読んだ人なら、少し分かってもらえるかもしれません。

主人公が目を覚ましてから、自分が誰なのか、ここがどこなのか、

なぜ自分がそこにいるのかを一つずつ解き明かしていく面白さ。

科学的な謎が次々とつながっていく快感。

そして物語の途中で訪れる、思わず「そう来たか!」と声を上げたくなる展開。

あの面白さは、小説だからこそ成立しているものだと思っていたんです。

 

そんなこともあって、ほかにも観たい映画がたくさんあった私は、

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を観に行くのがすっかり遅くなってしまいました。

 

原作も知っているし、まあ急がなくてもいいか。

そんな気持ちが、どこかにあったんでしょうね。

ところが、ようやく「じゃあ観てみるか」と映画版を観てみたら・・・

 

これはこれで、めちゃくちゃ面白いじゃないか!

原作の面白さをそのまま映像に移した作品ではありません。

むしろ、原作とはかなり違う場所に重心を置いている。

科学的な謎解きや細かな設定を思い切って圧縮し、

その代わりに登場人物の孤独や友情、誰かを信じることの尊さを、

映画ならではの映像と音楽と俳優の表情で描いているんです。

 

原作とは違う。

でも、違うからこそ面白い。

もっと早く観ておけばよかったと、素直に後悔しました。

 

そんな映画と原作について、今日はじっくり話してみたいと思います。

 

※今回もネタバレ全開で話しますので、
映画見ていない人はAmazonプライムビデオで配信していますので先にみてきてね!

 

さて、あらすじですけど

物語の始まりは、太陽が暗くなっていくという異常現象です。

このままでは地球が氷河期に入り、人類が滅亡する。

 

その原因を突き止めるため、一人の男が宇宙の彼方へ送り出される。

こう聞くと、『インターステラー』や『アルマゲドン』のような、

人類滅亡を阻止する壮大な宇宙ミッション映画を想像すると思います。

もちろん、そういう映画でもあります。

 

ところが途中から、

この作品は想像もしていなかった方向へハンドルを切るんですよね。

宇宙船の窓の外に、謎の船が現れる。

そこには、地球人とはまったく異なる環境で進化した知的生命体が乗っている。

岩のような体。

五本の脚。

目はない。

音の響きで周囲を認識し、和音のような声で話す。

 

その異星人に、主人公は「ロッキー」と名前をつけます。

ここから映画は、地球を救うハードSFから、

宇宙の果てで出会った二人の友情物語へと変貌していくんです。

 

 

しかも、ただの友情映画ではありません。

これは、逃げ続けてきた一人の男が、自分は何者なのかを知る物語。

誰とも深く分かり合えなかった男が、

十数光年離れた宇宙で、初めて本当に話が通じる友達を見つける物語。

 

そして、人間と異星人が「どちらの文明が優れているか」を競うのではなく、

互いに足りないものを差し出し合う物語なんですよね。

 

映画を観たあと、原作小説を読む。

原作を読んだあと、もう一度映画を観る。

すると、同じ物語がまったく違う顔を見せ始めます。

 

原作には、映画では描き切れなかった科学の驚きと緻密な因果関係がある。

映画には、原作の文字だけでは味わえなかった

ロッキーの実在感、グレースの孤独、二人の間に生まれる温かな感情がある。

 

どちらか一方が完成形なのではなく、両方を体験することで、

この作品の宇宙がさらに大きく広がっていくんです。

 

今回は映画と原作を行き来しながら、

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』という作品がなぜこれほど面白く、

なぜこれほど胸を熱くするのか、ネタバレ全開で、徹底的に考えてみたいと思います。

第1章 「私は誰だ?」から始まる、宇宙版・記憶脱出ゲーム

物語の冒頭。

主人公は、奇妙な袋のようなベッドの中で目を覚まします。

体には管がつながれ、目の前にはロボットアームがある。

 

機械が質問します。

「2+2は?」

 

なんだ、この状況は。

ここは病院なのか。

地下施設なのか。

そもそも、自分は誰なのか。

主人公は何も覚えていません。

 

映画では、ライアン・ゴズリング演じる男が、

覚束ない足取りで船内を歩き、ホワイトボードに「WHO AM I?」と書きます。

この「私は誰だ?」という問いが、作品全体を貫く最初の一球なんですよね。

 

原作では、この導入がさらに濃密です。

主人公には一般常識も科学知識も残っている。

重力を測れる。

物理法則を理解できる。

実験装置の意味も分かる。

なのに、自分の名前だけが分からない。

部屋の設備が床に固定されていることに気づく。

重力が地球とは違うことに気づく。

自分が宇宙船にいる可能性に気づく。

 

その発見をきっかけに、過去の記憶が断片的に戻ってくる。

まるで脱出ゲームなんですよね。

扉を一つ開ける。

新しい事実を発見する。

すると、記憶の中の扉も一つ開く。

 

主人公が世界を理解していくのと同時に、読者も世界を理解していく。

ゲームでいえば、マップと能力とミッションが少しずつアンロックされていく感覚です。

 

しかも宇宙船には、自分以外に二人の人間がいる。

ただし、二人ともすでに死んでいる。

この人たちは誰なのか。

なぜ自分だけが生きているのか。

自分は宇宙飛行士なのか。

科学者なのか。

英雄なのか。

それとも、何かから逃げてここにいるのか。

 

 

原作は、一ページ目からこの謎を積み上げていきます。

そして上巻の中盤で、

読者が思わず声を上げるほどの展開が起こるんです。

ところが本当にすごいのは、その驚きがゴールではないこと。

そこから物語は、さらに大きく、さらに奇妙に、

さらに感動的になっていくんですよね。

 

「私は誰だ?」という問いは、最初は単なる記憶喪失の謎に見えます。

でも最後まで観ると、これは名前や職業を問う言葉ではなかったと分かります。

 

人間は過去によって決まるのか。

肩書で決まるのか。

それとも、最後に何を選んだかによって決まるのか。

 

グレースは、記憶を取り戻すことで自分を知るのではありません。

最後の行動によって、自分が何者なのかを決めるんです。

 

第2章 太陽を食べる生物  この設定だけでご飯三杯いける

地球に起きている異変は、太陽の減光です。

太陽から金星へ向かって、奇妙な赤外線の帯が伸びている。

発見者の名前から、それは「ペトロバ・ライン」と呼ばれます。

 

 

最初は天文現象だと思われていた。

ところが回収したサンプルを調べると、

その正体は物質ではなく、生物だった。

 

太陽を食べる微生物。

その名も、アストロファージ。

 

ここで物語が、天文学から生物学へひっくり返るんです。

この瞬間、たまらないんですよね。

太陽の出力が下がっているのは、

核融合の異常でも、宇宙空間の塵でもない。

生き物が太陽のエネルギーを食べているから。

しかもアストロファージは、太陽で光と熱のエネルギーを取り込み、

二酸化炭素が豊富な金星へ移動し、炭素と酸素を材料に増殖する。

増殖したら、また太陽へ戻る。

 

太陽と金星の間を往復しながら、延々と増え続けるんです。

よく考えると、やっていることは人間と大きく変わりません。

外部からエネルギーと材料を取り込む。

それを使って自分を維持する。

複製する。

生命とは、突き詰めればそういう存在です。

 

アストロファージは、

太陽を滅ぼそうとしている悪の宇宙生物ではありません。

ただ生きているだけなんですよね。

 

ここが、この作品の科学設定の面白いところです。

善悪ではない。

生存と増殖があるだけ。

 

そして、この地球を滅ぼしかけている生物が、

人類を救う唯一の手段にもなります。

 

アストロファージは、吸収したエネルギーを小さな体内に蓄え、

猛烈な光として放出できます。

 

原作の内部設定では、質量とエネルギーをほぼ完全に変換する、

人類の物理学を超えた生命体として設計されています。

ほんのわずかな量でも、巨大な金属を一瞬で溶かす。

実験では、使用量を桁違いに間違えただけで施設そのものが吹き飛ぶ。

人間が扱える感覚を完全に超えたエネルギーなんです。

 

しかし、その力を利用すれば、

光年単位の距離を移動できる宇宙船が作れる。

 

つまり、

アストロファージのせいで地球は滅びかけている。
しかしアストロファージのおかげで、地球を救いに行ける。

このねじれが最高なんですよね。

 

敵がそのまま希望になる。

災厄がそのまま翼になる。

人類は、自分たちを滅ぼそうとしている生命体を燃料にして、

宇宙へ飛び出すんです。

 

アストロファージには、「悪」という概念がありません。

人類にとって都合が悪いから脅威に見えるだけです。

その一方で、人類が夢見てきた恒星間航行を可能にする存在でもある。

 

何かを一面的に「敵」や「味方」と決めつけることの危うさ。

毒と薬が量によって入れ替わるように、

災厄と希望も見る位置によって反転する。

この生命観があるから、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は

単なる宇宙SF映画にはならないんですよね。

第3章 人類を救うのは、超能力者ではなく「逃げたい普通の先生」

 

 

人類最後の宇宙船、ヘイル・メアリー号。

その目的地は、太陽と同じ被害を受けている近隣恒星の中で、

なぜか明るさを保っているタウ・セチです。

そこには、アストロファージを抑える何かがあるはず。

 

しかしタウ・セチは、地球から約12光年。

帰ってくるための食料は積めない。

乗組員は、地球に戻れないことを承知で出発します。

まさに人類が投げる、最後の一球。

 

ところが主人公ライランド・グレースは、

使命に燃える宇宙飛行士ではありません。

元生物学者ではあるものの、今は中学校の教師。

 

学界で自説を否定され、科学者の世界を離れた男です。

家族はいない。

守るべき恋人もいない。

大義のために命を捨てるタイプでもない。

むしろ、責任から距離を取って生きてきた人なんですよね。

 

映画では、ライアン・ゴズリングの持つ独特の孤独感が、

この人物像を見事に強調しています。

 

格好いいのに、どこか困っている。

頭はいいのに、宇宙では不器用。

全身を使ったコメディを見せた直後、

雨に濡れた迷子の大型犬のような顔で船内をさまよう。

 

この陰りがあるから、グレースがスーパーヒーローではなく、

私たちに近い人間として見えるんですよね。

 

しかも終盤、衝撃的な事実が分かります。

グレースは、自分から宇宙へ行くことを選んだわけではない。

本来の科学担当者が事故で死亡したため、

ストラットはグレースに搭乗を命じます。

グレースには知識がある。

長期昏睡に耐えられる、

極めて希少な遺伝的適性もある。

しかしグレースは拒否する。

怖い。

死にたくない。

地球の子供たちを救いたい気持ちはある。

でも、自分が死ぬのは嫌だ。

 

ミスチルの「HERO」の歌いだし

♪例えば誰か一人の命と引き換えに世界を救えるとして

僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ♪

そんな状態、

 

当たり前ですよね。

世界の危機をニュースで見て、

「誰か何とかしてくれ」と思うことはできる。

ところが「では、あなたが死んでください」と言われたら、

ほとんどの人は逃げると思います。

 

ストラットは、そんなグレースを薬で眠らせ、

強制的に宇宙船へ乗せます。

冷酷です。

許されない行為です。

 

でも原作では、彼女の判断は単純な裏切りとしては描かれません。

地球に残っても、食料不足、資源争奪、戦争、社会崩壊が起こる。

死にたくないから残ると言っても、

もっと悲惨な死に方をするかもしれない。

それならば、使命を果たせる可能性があり、

少なくとも死に方を選べる宇宙船へ送る。

 

ストラットは、グレースを犠牲にすると同時に、

彼に唯一残された生存と意味の可能性を与えたとも読めるんです。

 

映画版ではストラットの人間性も補強されています。

プロジェクトの仲間たちが集まるバーで、

彼女がハリー・スタイルズの「Sign of the Times」を歌う場面。

誰よりも冷静で、誰よりも残酷な決断を下す彼女が、歌の中でだけ感情を見せる。

周囲に大勢いるのに、グレースとストラットだけが静かに視線を交わす。

 

人類を救う計画の責任者と、そこへ送られる男。

互いに孤独な二人が、一瞬だけ本音でつながる美しい場面なんですよね。

 

 

今の時代、最初から「私が世界を救う」と言う人物は、

むしろ少し信用できないんですよね。

グレースは逃げます。

怖がります。

死にたくないと言います。

だからこそ、最後に彼が勇気を選んだ瞬間が本物になる。

 

勇敢とは、怖くないことではない。

逃げたい人が、それでも一歩を踏み出すことなんだと、

この作品は教えてくれます。

第4章 宇宙の果てで、ついに「本当に話の通じる相手」と出会う

タウ・セチへ到着したグレース。

そこで彼は、別の宇宙船と遭遇します。

 

地球のものではない。

しかし明らかに、誰かが作った船。

宇宙の彼方で、史上初めての知的生命体との接触が始まります。

 

普通のSFなら、ここで攻撃が始まりますよね。

正体不明の宇宙船。

危険かもしれない。

先に撃て。

侵略かもしれない。

 

ところが『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、

攻撃ではなく観察から始めます。

グレースが手を上げる。

向こうも手を上げる。

こちらが動く。

向こうもまねをする。

壁越しに、トントンと音を鳴らす。

 

模型を送り合う。

星系の位置を伝える。

空気の成分を調べる。

 

相手が何を必要としているのか、少ない情報から必死に推測する。

このファーストコンタクトが、ものすごく丁寧なんですよね。

 

ロッキーの船から、筒状の物体がふわりと送られてくる。

一か八か、相手に向けて投げられた最初の贈り物。

これ自体が、すでに「ヘイル・メアリー」と呼べる最後のパスなんです。

 

しかも、二人は似ています。

グレースは、地球を救うために来た。

ロッキーも、故郷エリドを救うために来た。

グレースの仲間は死んでいる。

ロッキーの仲間も全員死んでいる。

二人とも、宇宙の果てで一人ぼっち。

二人とも、自分の星へ帰るためではなく、

星に残した無数の命を救うためにここにいる。

 

これ以上ないほどの釣り橋効果です。

でも二人が親友になる本当の理由は、

同じ境遇だからだけではありません。

初めて、自分と同じ速度で考えられる相手に出会ったからなんですよね。

 

グレースは科学者。

ロッキーは天才的なエンジニア。

グレースが仮説を立てる。

ロッキーが装置を作る。

ロッキーが素材を加工する。

グレースが実験する。

 

誰かが命令し、誰かが従うのではない。

互いに相手の能力を信頼し、役割を渡し合う。

 

地球では、グレースの話を

本当の意味で理解できる相手はいなかったのかもしれません。

学界では異端者扱いされ、私生活でも深い関係を作れない。

そんな男が、宇宙の果てまで来て、

ようやく「話が通じる相手」に出会うんです。

 

この物語は、宇宙人と友達になる話ではありません。

地球では誰とも完全に同期できなかった男が、

宇宙の果てで初めて自分と同じ周波数の相手を見つける話なんですよね。

 

人は、自分と同じ国、同じ言語、同じ世代だから分かり合えるとは限りません。

毎日会っている人より、

旅先で偶然会った人の方が、驚くほど話が通じることがあります。

 

ロッキーは、グレースから最も遠い存在です。

生物としても、文化としても、物理的な距離としても遠い。

それなのに、誰よりも近い。

この逆説が、たまらなくロマンチックなんですよね。

第5章 言葉より先に必要なのは、「聞こうとする姿勢」

グレースとロッキーは、

最初から言葉が通じたわけではありません。

 

ロッキーの言語は、

複数の音が同時に鳴る和音のようなもの。

グレースは音を記録し、

状況と照らし合わせながら意味を推測していきます。

 

「はい」

「いいえ」

「質問」

「嬉しい」

「怖い」

少しずつ単語が増える。

やがて文章になる。

 

ここで大切なのは、

グレースが自分の常識を相手に押しつけないことです。

ロッキーに目がないと分かる。

光を認識できないと分かる。

高温・高圧のアンモニア大気で生きていると分かる。

するとグレースは、「なぜ人間と違うんだ」と考えるのではなく、

「もし自分が彼らの環境で進化したなら、どう考えるだろう」

と発想するんですよね。

 

この「相手の側から自分を見る」力が、

本作のコミュニケーションの核だと思います。

 

 

映画には、壁や境界を越える動作が何度も登場します。

ドアをノックする。

壁越しに音を返す。

二隻の宇宙船が速度を合わせる。

手と手を重ねる。

グータッチをする。

そして何より印象的なのが、

グレースがロッキーの作ったトンネルの中で、

宇宙服のヘルメットを脱ぐ場面です。

 

ロッキーの計算と技術を信じる。

この空間は安全だと信じる。

自分の命を守っている最後の壁を、自ら取り除く。

そこで二人の友情が完成するんですよね。

 

一方、ロッキーも後に、

自分を守る高圧の空間から飛び出し、グレースを救います。

 

ロッキーにとって地球型の船内は、

極端な低温・低圧で、酸素まで存在する危険地帯。

体が発火し、動けなくなる可能性すらある。

それでも壁を破って助けに来る。

グレースがヘルメットを脱ぐ。

ロッキーが保護空間を出る。

二人はそれぞれ、自分を守る壁を越えて相手の側へ行くんです。

 

 

また、エリディアンは眠ると自力では目覚められず、

完全に無防備になるため、仲間同士で睡眠を見守る文化を持っています。

ロッキーがグレースの睡眠を見守る。

その後、瀕死のロッキーをグレースが見守る。

科学設定が、そのまま愛情表現になっているんですよね。

 

コミュニケーション能力というと、

上手に話す力ばかりが注目されます。

 

でも本当に大切なのは、聞く力なのかもしれません。

自分は完成していない。

知らないことがある。

間違っている可能性がある。

 

そう認められる人だけが、未知の相手の声を聞ける。

この作品を観ると、日常で話が通じないと感じる相手にも、

「この人は別の惑星で進化した生物なのかもしれない」と思えば、

もう少し興味を持てる気がしてくるんですよね。

第6章 人間とロッキー、どちらが進んでいるのか?答えは「どちらでもない」

ロッキーは、ものすごい能力を持っています。

一度覚えたことを忘れない。

複雑な計算を一瞬で行う。

人類には作れない超素材、キセノナイトを自在に加工する。

必要な装置を、ほとんど即興で作り上げる。

 

これだけ聞くと、人間よりはるかに進んだ文明に思えます。

ところがロッキーたちは、相対性理論を知りません。

放射線の存在も知らない。

コンピューターも持っていない。

一見すると不思議ですよね。

恒星間宇宙船を作れるのに、なぜ相対性理論を知らないのか。

 

ここに、アンディ・ウィアーの設定の恐ろしいほどの面白さがあります。

ロッキーの故郷エリドは、超高温・超高圧。

大気はアンモニア。

 

非常に強い磁場に守られ、厚い大気によって地表には光がほとんど届かない。

そのためエリディアンは、目を進化させませんでした。

音の反射で周囲を認識する。

光を見ることがない。

空の星を眺めることもない。

宇宙への憧れを抱くきっかけも少ない。

 

人類が相対性理論へたどり着いた大きな入口は、

「光とは何か」という疑問でした。

 

しかし光を感じない文明には、その疑問自体が生まれにくい。

また強力な磁場によって放射線が遮断されていたため、

エリディアンは放射線を知る必要がなかった。

 

だから宇宙へ出たロッキーの仲間たちは、

放射線対策をせず、次々に命を落とします。

一方でエリドは、最初から巨大な高温・高圧実験室のような惑星です。

その環境で発達した材料工学が、キセノナイトを生み出した。

つまり文明の進歩は、一本の階段ではないんですよね。

環境によって、伸びる枝が違う。

人間は光の文明。

エリディアンは音と素材の文明。

 

人間は相対性理論とコンピューターを持つ。

エリディアンは圧倒的な記憶力、計算力、加工技術を持つ。

 

どちらかが上ではありません。

お互いに、できることとできないことがある。

だから一緒に問題を解けるんです。

 

 

しかも面白いことに、ロッキーが相対性理論を知らなかったことが、

結果としてグレースを救います。

 

ロッキーたちは必要な燃料を正確に計算できず、

アストロファージを多めに積んできた。

その余剰燃料を、グレースへ分けることができる。

知識がなかったことが、奇跡の余白を生む。

完璧ではなかったから、友達を助けられたんです。

 

私たちはつい、

知識や文明を一列に並べて、進んでいる、遅れていると評価します。

 

でも本作は、それを否定します。

人間が当たり前に知っていることをロッキーは知らない。

ロッキーが当たり前にできることを人間はできない。

違いは欠陥ではなく、協力が生まれる余白なんですよね。

 

完全な者同士には、助け合う理由がありません。

不完全だからこそ、二人は最高のチームになれるんです。

第7章 「生命は道を見つける」 タウメーバが見せる、科学の希望と恐怖

タウ・セチが暗くならない理由。

それは、惑星エイドリアンに存在する微生物、タウメーバでした。

 

タウメーバは、アストロファージを食べる。

つまり、アストロファージの天敵です。

これを地球へ持ち帰れば、太陽を救える。

ロッキーの故郷エリドも救える。

ついに勝った。

そう思いますよね。

 

しかし『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、

簡単には終わりません。

タウメーバは窒素に弱い。

地球側でもエリド側でも、そのままでは使えない。

そこでグレースとロッキーは、少量の窒素に耐えられる個体だけを選び、

増殖させ、少しずつ窒素濃度を高めていきます。

 

現実の薬剤耐性菌と同じ原理です。

人為的に進化を加速させ、窒素耐性を獲得させる。

成功します。

 

しかし生命は、人間が望んだ方向だけには進化しません。

タウメーバは窒素に耐えるだけでなく、

窒素から逃げるために、キセノナイトをすり抜ける能力

まで獲得してしまうんです。

 

『ジュラシック・パーク』の有名な言葉を借りれば、

「生命は道を見つける。」

 

人間は進化を利用できる。

でも進化の行き先を、完全に支配することはできない。

さらに恐ろしいのは、

ロッキーの船がほぼすべてキセノナイトで作られていることです。

キセノナイトは万能でした。

強い。

加工できる。

気密性も高い。

何にでも使える。

 

だからエリディアンは、何もかもキセノナイトで作った。

ところがタウメーバがそれを通過できるようになった瞬間、

万能だった素材が最大の弱点に変わります。

 

タウメーバは船の壁を抜け、燃料であるアストロファージを食べ尽くす。

エンジンが止まる。

放射線を遮っていたアストロファージも失われる。

 

ロッキーは、故郷にたどり着く前に、宇宙でゆっくり死んでいく。

夢の素材が、一瞬で悪夢へ反転するんです。

 

原作では、キセノナイトの万能性が長い時間をかけて積み上げられているため、

この反転の絶望感が凄まじい。

 

映画はそこを圧縮していますが、

回想や映像のつなぎ方によって、

「何が起きたか」を一気に理解させます。

 

原作は理屈で絶望させる。

映画は編集で絶望させる。

同じ出来事を、それぞれのメディアが違う武器で表現しているんですよね。

 

科学は問題を解決します。

でも科学が新しい問題を生むこともある。

しかも、その問題は失敗からではなく、

成功から生まれることがあるんですよね。

 

タウメーバの品種改良は成功した。

成功したからこそ、ロッキーが死にかける。

本作が誠実なのは、科学を万能の魔法にはしないことです。

 

科学は希望です。

しかし、結果を引き受け続ける覚悟まで含めて科学なのだと思わされます。

第8章 ヘイル・メアリーとは、「受け取る相手がいて初めて起こる奇跡」

タイトルの「ヘイル・メアリー」とは、

アメリカンフットボールで試合終了間際に投げる、

一発逆転を狙ったロングパスのことです。

 

成功する可能性は低い。

でも、投げなければ絶対に奇跡は起きない。

 

人類は宇宙船ヘイル・メアリー号を、タウ・セチへ向けて投げました。

地球から放たれた、最後のパス。

 

しかしパスは、投げるだけでは成立しません。

受け取る者が必要です。

 

ロッキーが最初にグレースへ送った筒。

模型。

知識。

燃料。

 

グレースが地球へ送り返す小型探査機ビートルズ。

そして最後に、グレース自身がロッキーのもとへ向かう。

 

映画では、グレースが命綱一本で宇宙空間へ飛び出し、

ロッキーの船へ向かう姿が描かれます。

 

最初にロッキーから送られてきた筒と、同じ軌道を描くように。

今度はグレース自身が、最後のパスになるんです。

 

帰れば、グレースは地球を救った英雄になれる。

生きて帰れる可能性も高い。

 

一方、ロッキーを助けに行けば、

地球への帰還に必要な燃料がなくなる。

原作ではさらに、エリドへ向かう途中で食料が尽き、

グレースが餓死する可能性がほぼ確実だと示されます。

 

それでもグレースは向きを変える。

待っていろ、ロッキー。

 

ここで、冒頭の「私は誰だ?」という問いに答えが出ます。

グレースは、勇敢な宇宙飛行士ではなかった。

自分から使命を選んだ英雄でもなかった。

逃げて、拒否して、強制的に送り出された男だった。

 

でも最後の最後に、自分の意思で誰かを救う。

地球では選べなかった自己犠牲を、宇宙の果てで選び直す。

 

過去は変えられない。

でも、次の選択は変えられる。

グレースは名前や経歴ではなく、

行動によって「私は誰か」に答えるんです。

 

さらに原作では、ロッキーがグレースを生き延びさせる方法を発見します。

アストロファージを食べるタウメーバを、グレースが食べる。

太陽を食べるアストロファージ。

それを食べるタウメーバ。

そのタウメーバを食べて生きるグレース。

 

「食べる/食べられる」の連鎖が、

最後には命を救う方向へ反転します。

宇宙は、巨大な捕食とエネルギーの連鎖でつながっている。

 

そこに善悪はない。

ただ、命が次の命へ渡されていく。

これもまた、一つのパスなんですよね。

 

奇跡は、一人では起こせません。

どれほど素晴らしいパスでも、

受け取る人がいなければ地面に落ちる。

 

ストラットがグレースへ使命を渡す。

ロッキーがグレースへ友情を渡す。

グレースが地球へタウメーバを渡す。

そしてグレースがロッキーを救いに行く。

 

この物語では、誰も一人で世界を救っていません。

人類最後の希望とは、最強の英雄ではなく、

最後までパスをつなぎ続けることなのだと思います。

第9章 映画は何を捨て、何を手に入れたのか

映画版は、原作の多くを削っています。

記憶を取り戻していく細かな過程。

アストロファージの実験。

スピンドライブの仕組み。

地球で実行される過酷な環境破壊計画。

ロッキーの生態。

エリディアンの科学史。

タウメーバの進化実験。

食料問題。

生命の共通起源。

 

原作にある科学的な謎解きの快感は、

かなり圧縮されています。

 

原作ファンが

「あの場面を残してほしかった」と感じるのは当然だと思います。

特に原作ラストの感動は強烈です。

エリドで暮らすようになったグレースのもとへ、ロッキーがやって来る。

そして伝える。

地球の太陽が、元の明るさに戻った。

地球は救われた。

僕たちは勝った。

 

グレースは、そこで初めて自分の使命が成功したことを知ります。

自分が救おうとした子供たちは生きている。

人類は、自分の送ったサンプルを受け取った。

自分の犠牲は無駄ではなかった。

そしてロッキーは、その大切な知らせを、

自分の口からグレースに伝えたかった。

ここで友情と地球救済が、完全に一つになるんですよね。

 

映画版は、この結末を変更し、

グレースがエリドで教師を続けている幸福を前面に出します。

 

 

 

 

 

原作が、

使命を果たしたことを知る救済を描いたとすれば、

映画は、

本当に自分らしく生きられる居場所を見つけた幸福を描いた。

 

どちらが正しいという話ではありません。

映画化は、原作の挿絵ではないんですよね。

映画には映画の時間があり、

俳優の表情があり、音楽があり、映像の運動があります。

 

映画版は科学的な説明を削る代わりに、壁をノックする音、

船が同期して回転する姿、ロッキーの身体の動き、グレースの涙、

ストラットの歌によって、感情を濃くしました。

 

ロッキーをパペットで表現したことも大きい。

顔がない。

表情もない。

なのに、少しぎこちない動きが幼さと愛らしさを生み、

そこに実在しているように感じられる。

 

グレースとロッキーの船が結合し、同じ速度で回る姿は、

二人がダンスをしているようにも見えます。

物理的に同期することが、心の同期を表しているんです。

 

映画は、原作に足りない作品ではありません。

原作とは別の場所に重心を置いた、

もう一つの『プロジェクト・ヘイル・メアリー』です。

 

映画と原作は、競わせるより重ねた方が面白いと思います。

 

映画は感情を見せる。

原作は、その感情が成立する科学的・倫理的な宇宙を作る。

 

映画でロッキーを好きになり、原作でロッキーの文明を知る。

原作で理屈を知り、映画でもう一度仕草を見る。

 

すると、最初はただ可愛かった動きが、

文化や生態に裏打ちされた行動に見えてくる。

映画と原作を両方体験して、

ようやく完成する物語なのかもしれません。

第10章 グレースにとって「家」とは、地球ではなくロッキーの隣だった

一般的な宇宙映画では、

「地球へ帰ること」が最大の目的になります。

 

宇宙は危険な場所。

地球は故郷。

青い星を見て涙を流す。

それが定番です。

 

ところが『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、

その感情を静かに書き換えます。

 

グレースは地球へ帰る道を捨て、ロッキーの方へ向かう。

小型探査機ビートルズに地球を救うデータを託し、

自分は親友を救いに行く。

 

映画で流れるビートルズの「Two of Us」。

小型宇宙船ビートルズは地球という家へ帰っていく。

しかしグレースにとっての家は、

いつの間にか別の場所へ移っている。

 

地球から16光年離れた、アンモニアの惑星。

直接触れることもできない異星人の隣。

なぜなら、そこには自分のことを理解してくれる相手がいるからです。

 

映画のラストで、

グレースはエリドの子供たちに科学を教えています。

 

冒頭では、地球の子供たちへ光の速度を尋ねていた。

最後には、光を見ることすらできないエリディアンの子供たちへ、

同じ問いを投げかける。

「光の速度が分かる人?」

小さな手が一斉に上がる。

 

ここで物語は円環を閉じます。

グレースは科学者として学界に戻ったわけではない。

地球の英雄として表彰されたわけでもない。

 

彼が本当に好きだった仕事に戻った。

教師です。

知識を独占するのではなく、次の世代へ渡す人。

考えてみれば、これもパスなんですよね。

 

ストラットから託された使命。

ロッキーから受け取った友情。

地球から持ってきた科学。

それらを、今度はエリドの子供たちへ渡していく。

 

グレースは、地球へ帰れなかったのではない。

自分が本当に必要とされ、

自分らしく生きられる場所へたどり着いたんです。

 

ロッキーがグレースに、

地球へ帰るかどうか考えているのかと尋ねる。

 

グレースは、まだ考えていると答える。

するとロッキーは、考え続けていいと言う。

その言葉は、まるで、

ずっとここにいていいと言っているように聞こえるんですよね。

 

家とは、生まれた場所とは限りません。

国籍でも、住所でもない。

 

自分の言葉が届く場所。

自分の能力を必要としてくれる場所。

自分が安心して眠れ、それを見守ってくれる相手がいる場所。

そして何より、自分もその相手の眠りを見守りたいと思える場所。

 

グレースは宇宙の果てで、地球よりも遠く、

地球よりも近い家を見つけたんだと思います。

終章 こんなにまっとうな映画が、今これほど胸に刺さる理由

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』には、

悪の帝国が登場しません。

宇宙人の侵略もない。

AIの反乱もない。

選ばれし血統もない。

最強の兵器で敵を倒す話でもない。

 

登場するのは、問題です。

未知の生命。

異なる環境。

食い違う知識。

限られた時間。

科学の失敗。

そして、目の前の相手を信じられるかという選択。

 

グレースとロッキーは、

相手を論破しません。

支配しません。

自分の文明の正しさを証明しようともしません。

 

観察する。

質問する。

試す。

失敗する。

修正する。

相手の話を聞く。

自分にできないことを認める。

そして、一緒に考える。

 

この当たり前の姿勢が、

今の時代には驚くほど新鮮に見えるんですよね。

 

冷笑。

逆張り。

分断。

自分の正しさを叫ぶだけの議論。

何でも敵か味方かに分けたがる空気。

 

そんなものに疲れているからこそ、

科学と好奇心と友情で問題を解決する物語が、

これほど気持ちいいのだと思います。

 

この映画の本当の奇跡は、地球が救われたことではありません。

人間と異星人が出会ったことでもない。

自分とはまったく違う存在を前にして、

「怖いから攻撃しよう」

ではなく、

「君は誰なんだ。もっと教えてくれ」

と手を伸ばしたことです。

 

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、

宇宙の果てで異星人と出会う物語ではありません。

宇宙の果てまで行って、

初めて自分の話を聞いてくれる友達と出会う物語です。

 

そして同時に、

逃げ続けてきた男が、親友から勇気を受け取り、

最後には自分自身が誰かを救うためのパスになる物語です。

 

 

映画をまだ観ていない人は、

できたら映画館の大きなスクリーンで観てもらう方がいいのですけど

Amazonプライムビデオで配信も始まっていますので

まずは気軽に観てみてください。

 

ロッキーの最初の動きに笑い、

二人が言葉を覚えていく過程にワクワクし、

船が並んで回転する姿に胸を熱くし、

最後の選択に心をつかまれるはずです。

 

そして映画を観たら、原作小説を開いてください。

1ページ目から始まる記憶の謎。

科学的な発見の連続。

映画では省略されたエリディアンの生態と文明。

タウメーバとキセノナイトが引き起こす、緻密で残酷な因果。

そして、ロッキーがグレースへ伝える、

あまりにも大切な最後の知らせ。

 

映画で泣いた人ほど、原作ではもっと深くやられます。

原作を読んだら、もう一度映画を観たくなります。

 

ロッキーが眠りを見守る意味が変わる。

グレースがヘルメットを脱ぐ重さが変わる。

二人の船が一緒に回るだけで泣きそうになる。

 

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』という作品との出会い自体が、

私たちへ投げられた一つのロングパスなのかもしれません。

 

あとは、受け取るだけですね。

今回はこんなところで!

では。

 

 

 

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