かつてはそのやり方でOKだったかもしれませんが、その人は自分をアップデートすることをしません。それだけならまだ我慢もできますが、年功序列的社会である教員集団においては、若手の悪い見本となってしまっているという、目も当てられない状況もあります。
まさに反面教師ですね。
先日あった、不審者対策の避難訓練。私は犯人と対峙する職員の一人として参加しました。犯人役は本物のお巡りさん。進路を防ぐ我々に対して、いろいろとごたくを並べて侵入しようとします。リアルな表情、態度で演技するんですが、会話する職員に向かって、「お前の方が不審者ヅラしてるじゃねえか。」とか
「こんなに集まってきて大袈裟だろう。怖いじゃないか。」とか言うので、マスクの下で笑いが止まらない。
最後は刺股で無事取り押さえに成功。
ところが、この捕物の裏で生徒たちは教室にバリケードを作って待避している設定だったので、お互いの様子はわからないまま訓練終了。
誰かビデオ係でも決めて、後で見合うとか思いつかなかったのか?もったいない。
本日は秋晴れ。近隣の小学校では、マラソン大会が行われたそう。
かつて、だいぶ過去の話になりますが、マラソン大会担当をしたことが何度かあります。
当時、私はマラソン大会の内容に疑問を持っていました。
全生徒が一斉に走り、タイムと順位を競う。ときには集計して学級対抗行事にする学校もありました。
でも、そんなんでいいのかな?
上位に入る子や自慢できるタイムをたたき出す子はいいのですが、その他大勢はこの行事を嫌がっていました。
理由は明白で、苦しくてキツいに加えて、特に下位の子はみっともない自分の姿を公にさらさねばならない。
そりゃ、嫌でしょうね。数日前から気持ちが沈み、生徒によっては当日学校を休んでしまうこともありました。
毎年一回、そんな思いをする生徒は、走ることが嫌いになります。もう一生走ろうとしないかもしれません。
それは学校における体育指導のねらいの本質から逸れるのではないでしょうか。それを何とかしようと考えました。
考案した企画は、一日限りの大会としてではなく、マラソン大会「期間」をもうけ、その期間内に走った総距離を競う。
最終日にこれまで通りのマラソンを行い、走行距離にプラスする。期間中の総走行距離は自己申告。頑張ってたくさんの距離を走った生徒を後日紹介(表彰ではない)する。
記録や順位をねらいたい、走れる子は最終日の一斉スタートで華やかに走って諸手を挙げてゴールする。走るのが遅い子たちは自分のめざす距離に向けて数日間黙々と走りきり、人との比較ではなく、あくまで自分のために走る。ゆっくり走ることを楽しんだり、体力作りを目指したり。
どうしてもクラス対抗にしたいなら、この期間の全員の総距離で勝負する。早さは関係なく、タイムも取らない。あくまで走り込んだ距離で競う。それなら遅い子たちもそれなりにクラスに貢献できる。
期間中、生徒たちは朝や昼休みなどを利用して、マイペースでグラウンドを走り、日々の走行距離を記録していきます。
その気になって、かなりの距離を走る子も入れば、他のことに夢中で走らない子もいる。でも、それぞれの走ることへの考え方を尊重しつつ、走ることを嫌いにならないようにしていく。そういう行事でした。
どうなったか?
結論を言うと、職員会議で企画は通っていたんですが、最終日に私自身が朝から出張していて、そこに非常勤の再雇用年配先生がたまたま出校日で、その朝の打合会で、「こんな行事は聞いたことがない。従来通りにやるべきだ。」と自論をぶちまけたのに管理者が屈し、最終日はこれまでと同じやり方に急遽戻って実施となったのです。私は出張から帰ってからその事実を聞き、唖然としました。
終わってしまったものはどうしようもなかったのですが、非常に落胆したのは覚えています。
生徒たちはどうおもっていたのかなぁ。他の先生方もそれでよかったのかなぁ。
現職を退いて、非常勤の初任者指導担当講師となって3年目になります。
1年目は社会人経験もある30代の女の先生。2年目は苦労して40歳を過ぎてからやっと採用された男の先生。3年目の今年は大卒で採用されたホヤホヤの若い男の先生を受け持っています。
私は彼らと授業を共にし、職員室で意見を交わしたり、時にはわざわざ時間をとって研修したりしながら毎日の指導をしています。
総じて、彼らイマドキの初任者の先生方は熱心であり、周囲からたくさん吸収しようと貪欲で、とても感心します。
さて、彼らと接しながら、私自身が指導のモットーにしていることは、「私のコピーを作らない」ということです。
具体的には、「こうしなさい、ああしなさい」と指示しない。
これをすると、初任者の先生は私の言葉を信じて何でもその通りやってしまいます。
素直であるけれど、それではこの先、指示待ち人間になってしまう。それに、指示する内容はどうしても私の経験値を踏まえたものなので、私を模倣するような言動になってしまう。これでは彼らの個性が死んでしまう。
次に「問われたことにすぐ答えず、まずは自分で探させる」ようにしています。
経験がない、あるいは少ないとどうしても不安がついてまわります。だから、少しでも早くそれを解消したくなり、すぐ答えを求めたくなるのはわかるんですが。
「○○についてですが、どうしたらいいですか?」と問われたら、「どうしたらいいと思う?」と返します。
「△△をやってみたいのですが、どう思いますか?」と問われたら「やってみたらいいんじゃない。」と返します。
失敗を恐れず(恐れながらも)、試行錯誤してやってみて、自ら答えを見つけ出す過程を大切にしたいと思うし、即答はやっぱり私の模倣化につながっていく。自分の考えでやってみて失敗を経験した方がより成長できると思います。もちろん、失敗の痛みが致命的にならないように、こちらはこちらで対策をとっておくんですけどね。
ただ、彼らからしてみれば「この人、こちらの求めることになかなか答えてくれない意地悪な人だな。」とか、「この人、指導力がないんじゃないの。」なんて思っているのかもしれない。それでも私は「私のコピーを作らない」ように、指示せず、即答せず、育てていきたい。それが彼らの独自性を創り出し、将来はよい意味で個性的な教師になっていくのだと思っています。
うーん。ところが、周りにはいるんです。私のやり方を見かねて、間に入ってきては指示、即答してしまう他の先生方が。
もう少し信じて任せてほしいな。指導方針をしっかり伝えていない私も悪いか。
昨今は、中学校の先生方にとって部活動指導の負担が大きすぎるという話題をよく見聞きします。
そこで、部活動についていろいろ私なりに考えていることを適宜ブログに記していきたいと思います。
もしかしたら、シリーズになるかもしれないので、記事タイトルに⑴をつけました。
さて、学習指導要領によると、部活動は「学校教育活動の一環」だと位置づけています。
部活動推進派の先生方の弁によると、「学校教育活動の一環」とあるから、学校で行うべきことである。
したがって、教員の本務とすべきものである、と解釈される方がいる。
「なるほど」とは思う。
私は「一環」という部分に着目したい。
部活動は「学校教育活動である。」ではなく、「学校教育活動の一環である」という書き方になっています。
各教科や道徳、特別活動などに関しては、当たり前に「学校教育活動」と書いているはず。
たとえば、「国語の授業は学校教育活動の一環である。」とは誰も言わない。
国語の授業はそもそも「学校教育活動」であるから。
そう、部活動の説明にわざわざ「一環」がつくということは、それが「学校教育活動」とは別物であるということ。
部活動は、「学校教育活動」にしたい?「学校教育活動」であってほしい?けど、そうもできないもの(そうもできない理由はまたいつか記したいと思います。)なので「一環」をつけました、ってことなんだと思います。
だとすれば、部活動は「学校教育活動」ではない、という解釈も成り立つわけです。
私自身、もっと研究して、文献も調べ上げてみないと断じられないとは思いますが、少なくとも現時点で、いろいろな立場や視点からどちらとも読み取れる文言は学習指導要領にあってほしくない。
今すぐにでも、この「学校教育活動の一環」という文言を変えて、すっきり迷うことなくわかりやすい表現にしてほしいものです。
それが部活動の負担軽減を具現化する第一歩かなと思っています。
ところで、部活動以外に「学校教育活動の一環」に当たるものは何だろう?
地域への奉仕活動とか、地方自治体主催の海外研修事業とかかな?
明日の健康診断のため、大好きなお酒は本日NG。
最近は不摂生な生活をしているので、きっと悪い数値が出るんだろうな。
先日は授業中に激しい頭痛が発生。
数分で収まったものの、休み時間に養教さんに血圧を測って貰ったら、なんと191もあった。
さらに心配してくれた養教さんは「体温も測ってみましょう。」
そしたら34.8度。
「何、何?俺まもなく死ぬ?」
この話が管理職に届き、すぐに病院に行くように指示された。
結局MRIやレントゲンを撮って貰ったけど、特に異状はなかったので結果オーライ。
医者のコメントは端折りますが、少し、いやかなりビビった出来事でした。
というわけで、明日は数値悪いんだろうなぁ。