香宮堂さんの塗香をTwitterに紹介したらブログにそのツイートを載せて頂けました!!
小説家の深志美由紀先生からスピ系万屋の灯璃さん、お二人のコラボキャスから香宮堂さんを知り、素敵だなと思って購入させて頂きました。

他にもお財布の浄化や厄除けのお香など使わせていただいております。
とても良い香りで気分爽快です!

祈願に行った石山寺ではコロナ終息の祈願の御札も頂きました。早く自由に色々な所へ行けるようになりたいものですね。




ども。少しづつご飯が食べられるようになってきたあたしです。

9/10誕生日だったんです。精神的ダメージに次ぐダメージで眠れず、ご飯も食べられず、解離を起こし心も体もボロボロでしたが皆様からの優しい励ましのお言葉やAmazonギフトで贈って頂いたプレゼント、それに添えられた温かいメッセージのおかげで『まだ大丈夫』『まだやれる』と思う事が出来て再起不能という事態は避けられました。改めましてありがとうございました。

私は昔から誕生日が少し苦手です。私の母は会ったこともない父親の悪口ばかり私に聞かせていました。父と似ているという理由で殴られたこともあります。
自分の半分である母がとても醜くもう半分である父親を罵るところをみて育ったので自分の『生まれた事』『生きている事』に喜びが感じられ無かったのです。

散々悪口を言ったあとは決まって「あんたが生まれたからあの男と離婚する決意ができた。ありがとうな」と言われるので私が生まれなければ二人はまだ一緒に居たのだろうか?父に似ている私も母の気にいる娘でいなければ捨てられるのではないか?とも考えていました。
素直に自分の生を喜べる環境に無かったのです。
なのに「おめでとう!」と言われてプレゼントを貰い「ありがとう!」と喜ばないと悲しまれたり嫌がられたりするのです。
それが誕生日が少し苦手な理由でした。

その事を先日亡くなった祖母に泣きながら話した事がありました。その時祖母は「あんたが生まれた時、おばあちゃんもおじいちゃんも、お父さんお母さん、皆が心から喜んだんやで。あんたはちゃんと望まれて生まれてきた。それは確かやで…!」と静かに力強く言ってくれました。

今は父を選んだのも母なら別れることを決めたのも母、母を選んだのは父、二人の関係が悪化した事に対して私には何の責任もないのだと、人の心を持たない二人の間の子ではありますがそれが私の全てでは無いと思っています。

そう思えたのは生まれて35年間の中で出会って、私を大切に思ってくださる方がこんなに居るのだと実感したからです。
成長するにつれ沢山の人と関わって多くを学び信じたり傷ついたりしながら手に入れた『私自身』その始まりが誕生日なのだとしたら悪くないなとも思えます。

そんな私の『親への手紙』を12月5日に都島区民センターで行われるイベントで朗読する予定です。
パワチル大阪は私が立ち上げから関わった団体で今もメンバーチェンジを繰り返しながら頑張って虐待を無くすために活動しています。

このブログを見て少しでも何かを感じてくださったのなら彼らのブログを見てください。

誰かがやってくれるだろうでは何も変わらないんです。


どうも、心のダメージが内蔵に来る私です。ちゃんと内科受診しましたよ。

昔から虐待サバイバーであることや、受けた虐待の内容をお話すると「強いね」「よく生きててくれたね」と言われる事が多いんですが、正直今まであまりよく分からなかったんです。「それ以上強くならなくてもいいよ」と心配してくれる人も
います。
死にきれずにたまたま生き残っただけですし…なんて思ってました。

最近はとある人に傷口に塩を塗り込んで踏みにじられたので「それはあかんやろ」と吼えたら謝りもせず後ろ足で砂をかけて逃げていきました。
そして我が身可愛いだけのその人の手先から謝る素振りで痛みを飲み込めと更なる痛みを強要をされまして…

情も知性も無い人間に権力を持たせてはいけない見本みたいな状況を見てしまい、無知は罪という言葉に頷くそんな日々です。
非常識もおつむが足りないのもそれが原因で人を不快にさせた時点で罪ですね。


もうこれ以上人の気持ちが分からない者達に傷つけられたくないと思っていたのですが、優しい方々に励ましていただき、私の命が「まだ生きていたい」と言うので生きる事にしました。

そんな時思い出すのはthe back hornの生命線という曲です。
ジャケ写はこちら

『線路の冷たさに触れて初めて
 自分の「体温」を感じた
必死で燃えている赤い命が
「生きていたい」と確かに告げた』

『それでもたぎる血よ共に生きよう
関係するのさ命かけて』


歌詞がとても印象的で、どうせ生きるなら強くなりたい!と思わせてくれます。
自分の傷口を直視するのはとても勇気の要ることで、人とちゃんと向き合って関わるのはとてもエネルギーを必要とします。
真っ直ぐ向き合おうとしても向こうもそうしてくれるとは限りません。

それで諦めるのが大人で賢い生き方ならば私は大人になり損なったあほだと思われても自分の生き方を貫きたいんです。

それでどれだけ傷つこうが死んだように生きるよりマシです。
不倶戴天の敵、食肉寝皮という言葉を思い浮かべ自分の抱いた感情の醜さから目を逸らしたい時もありますが、その怨恨も怨嗟の声も全て自分の心の一部だと認める事で乗り越えられると信じています。
怖がって目を逸らすからそれはどんどん増長し、最終的に飲み込まれてしまうのです。

少なくとも私の求める強さとは自分や他人の痛みに鈍感になることではなく怨念も醜さも汚さもあるがままを認め受け入れることが出来る強さです。
その相手が親だろうと他人だろうと憎むべき相手をちゃんと憎むのが回復への第一歩だと考えています。
こうして私は強くなっていくのかなと最近思っています。
筋肉と同じですね。傷ついて再生する時に少し強くなる。
友達にインテリ脳筋と言われた事を思い出しました。どうやら私は心も筋肉で出来ているようです(笑)

ブログを読んで励まされた!元気を貰った!と言って下さる方も居て、強くなりたいともがきながら生きる私に存在する意味があるのだと思わせてくれます。いつもありがとうございます。




どうも、昔から辛い時は音楽に頼るあたしです。

2020年の8月はこれでもか!と酷い出来事が続き
今までに無い程の悲しみや怒り、そして憎しみを同時に覚えた事でそれぞれの方向へ感情が振り切れてしまい涙も出ず自分が何を感じているのかさえ分からなくなりました。

強いて言うなら何も感じない事が怖い…?という感じでしょうか。
その恐怖や自分の人生から逃げたくなったのか、私は自分の命を絶とうとしました。(失敗したしそれで良かったと思っています)
コードを引っ掛けていた金具のネジが外れて尻もちをつき、壁から外れた金具が頭を直撃しました
。色んな所が痛かったです。

今までも「死にたい」と思ったことは何度もありましたが、もっと激しい感情が体中を駆け巡っていたように思います。
そしてその感情の波の激しさに疲れきった時、その気持ちは「もう生きていたくない、この世に存在したくない、欠片も残さず消えたい、生まれたことさえ無かったことにしたい」に変わるのです。

そんな細波すら立たない私の胸に聞こえてきたのは敬愛する中島みゆきさんの歌声でした。
命の別名
命のリレー




『たやすく涙を流せるならば
たやすく痛みもわかるだろう
けれども人には
笑顔のままで泣いてる時もある

石よ樹よ水よ僕よりも
誰も傷つけぬ者たちよ

繰り返すあやまちを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも』


命の別名のこの部分が過ぎり

『ごらん夜空を星の線路が
ガラスの笛を吹いて 
通過信号を出す
虫も獣も人も魚も
透明なゴール目指す
次の宇宙へと繋ぐ

(中略)

僕の命を僕は見えない
いつのまに走り始め 
いつまでを走るのだろう
星も礫(こいし)も人も木の葉も
ひとつだけ運んでゆく
次のスタートへ繋ぐ

この一生だけでは辿り着けないとしても
命のバトン掴んで 願いを引き継いでゆけ』


命のリレーが聴こえました。


私は親からの虐待によって沢山の傷を負って生きてきました。
体の傷なら目にも見えるし殆どの人が気遣ってくれるでしょうが、精神が受けた傷は無いものとして扱われ配慮など皆無です。

そんな傷みがなければもっと簡単に乗り越えられたであろう辛い出来事や心無い人間との軋轢…

そんな自分の心の痛みに耐えかねて暴れ回り無関係な人まで傷つけてきた自覚があります。
中には助けようと手を差し伸べてくれた人もいました。その優しさすらも苦し紛れに振り払ってしまったのです。

大人になった今も思わぬタイミングで背中から滅多刺しにされ、相手への怒りや憎しみに塗れて自分の心を見失う…そんな日もあります。

そんな時に聴こえたみゆきさんの歌。
ふと英語表記のタイトルが頭に浮かんだのでiPhoneで確認してみました

命の別名はAnother Name for Life
命のリレーはRelay of the Soul

どちらも『命』について歌われていますが
それぞれ『Life』『the Soul』と訳されています。

あくまでも私の言語感覚ではの話になりますが、命の別名は生き物がそれぞれ一つだけ持っているもの、命の普遍的な概念を歌っているように聞こえます。
命= 一個の生命体 = 心


そして命のリレーは
生物も植物も個の寿命はあれど全体としての生を全うし続けている、人もその中の一種類で
単純な血の繋がりではなく『魂が近い人』の願いや意志を引き継ぐことの大切さや強さを形にした作品だと感じています。ライオン・キングのCircle of Lifeを思い出します。

願い=志=魂=命


ここまで来て気づくのは
命= 一個の生命体 = 心 = 志 = 魂= 命=……

別物だと思っていたのに輪になっているんですよね。全は一、一は全。

幼い頃から周りに馴染めず世の中からつまはじきにされた気分で生きていた頃もあったし無理に「普通」を演じようとした時期もありました。最近は随分と自然に生きられている気もしていましたが、幼い自分が泣き止んでくれない感覚があったような気がします。
そんな私は今までにない程「死」を身近に感じた時、やっと自分も大きな生命の輪の流れの中にいるのだと納得できたのです。

あの時ネジが外れてくれてよかった
みゆきさんの歌を何度も聴いておいてよかった

虐待された過去は消えないし、祖母の死にまつわる酷い出来事は無かったことになりませんし、しません。
これからも色々と起こるでしょうし、死にたくなる事も消えたくなる事もあるかもしれません。
でも、きっとその度に私は胸に響いてくる音楽に耳を澄まして生きていくのだと思います。



7月の沖縄祈願のテーマは「ヒトが今まで自然を破壊し、自然から奪ってきたものをお返しします」というものだった。

きっとこれからも何度も祈願することになるだろう。


師匠曰く、まだまだ自然災害や未知のウイルスによる人間の困難は続くという。


帰りの飛行機の中で自然というものに意思があるなら?と、人の言葉を持たない自然そのものになり切って考えてみようとした。

自然から見れば人間は地球が出来てからこちら数多生まれた沢山の生き物のうちの一種類。

それ以上でも以下でもない。


それらが領分も弁えず与えることを許可した範囲を超えて傷つけ奪っていくのをただ黙って見過ごせるだろうか?

中にはこれ以上続けてはいけないと声をあげたり、連帯責任を負おうとする者もいるが結局のところ人間そのものは変わらず自然を傷つけ奪う。


人間の中には心から反省し赦しを乞う者もいれば自己満足的な謝罪を押し付けるだけの者もいる。


それでも自分の方が大きく強いのだから心から反省している人間に免じて与える罰の重さを量りその都度必要最低限の罰を与えあとは飲み込む。


しかし、反省しない者、自己満足的な謝罪を押し付けて痛みを受けた者を黙り込ませる為の詭弁を弄しそれを止めようとしない者によって何度も同じ過ちが繰り返され癒えない傷の上からさらなる傷をつけられ人間そのものの罪はどんどん深く大きく重く積み重なっていく。


いくら自分の方が大きく強い存在とはいえ我慢にも限界がある。自慰行為的な謝罪を「これは私の自己満足です」と開き直り、謝っているのだから痛みを飲み込めと被害者に迫る恥知らずに対する怒りや憎しみは反省しない者へのそれよりも強くはならないだろうか?その者の罪は反省しない者よりも重くは無いか?


ここまで考えた時、許して貰えなくても反省し、それを行動で示さなければいけないと強く思った。


親から受けた様々な虐待、私の心を育んでくれた祖母への虐待を止められない自分への怒り、悔しさ、その中での祖母の死、それを軽んじ、その事に対する抗議に不誠実な対応をした者やそれを庇う者達から受けた精神的な苦痛私という小さな器には全てを飲み込む大きさは無いし、飲み込まなければいけない道理は無い。

しかし怒りと苦しみに飲み込まれて加害者になるわけにはいかない。

そこの折り合いをつけるのが難しいが、昔読んだ本に「ヒト以外の生き物の復讐は自身が受けたのと同等、もしくはそれ以上の苦痛を与えた時に終わる」というのがあったのを思い出した。

罪の対価は過不足ない罰で償うしかない。加害者はそれを測る資格不服を抱く権利も持たないのだろう。(もちろん裁きが下るまで黙っていろと言うのではない。せいぜい藻がいて足掻けばよい)


だから私は許して貰えないとしてもヒトのうちの一人として拝みを続ける。

もし私の生きているうちに答えが貰えなくても、もし貰えたとしてその答えがどんなものであろうとも。


もしこれを読んで下さった後、興味と余裕があれば「自然」と「ヒト」を様々なものに置き換えて考えてみて欲しい。「子」と「親」や「あの人」と「自分」など。