関係するのさ命かけて』
けれども人には
笑顔のままで泣いてる時もある
石よ樹よ水よ僕よりも
誰も傷つけぬ者たちよ
繰り返すあやまちを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも』
虫も獣も人も魚も
透明なゴール目指す
(中略)
僕の命を僕は見えない
いつのまに走り始め
星も礫(こいし)も人も木の葉も
ひとつだけ運んでゆく
命のバトン掴んで 願いを引き継いでゆけ』
7月の沖縄祈願のテーマは「ヒトが今まで自然を破壊し、自然から奪ってきたものをお返しします」というものだった。
きっとこれからも何度も祈願することになるだろう。
師匠曰く、まだまだ自然災害や未知のウイルスによる人間の困難は続くという。
帰りの飛行機の中で自然というものに意思があるなら…?と、人の言葉を持たない自然そのものになり切って考えてみようとした。
自然から見れば人間は地球が出来てからこちら数多生まれた沢山の生き物のうちの一種類。
それ以上でも以下でもない。
それらが領分も弁えず与えることを許可した範囲を超えて傷つけ奪っていくのをただ黙って見過ごせるだろうか?
中にはこれ以上続けてはいけないと声をあげたり、連帯責任を負おうとする者もいるが結局のところ人間そのものは変わらず自然を傷つけ奪う。
人間の中には心から反省し赦しを乞う者もいれば自己満足的な謝罪を押し付けるだけの者もいる。
それでも自分の方が大きく強いのだから心から反省している人間に免じて与える罰の重さを量りその都度必要最低限の罰を与えあとは飲み込む。
しかし、反省しない者、自己満足的な謝罪を押し付けて痛みを受けた者を黙り込ませる為の詭弁を弄しそれを止めようとしない者によって何度も同じ過ちが繰り返され癒えない傷の上からさらなる傷をつけられ…人間そのものの罪はどんどん深く大きく重く積み重なっていく。
いくら自分の方が大きく強い存在とはいえ我慢にも限界がある。自慰行為的な謝罪を「これは私の自己満足です」と開き直り、謝っているのだから痛みを飲み込めと被害者に迫る恥知らずに対する怒りや憎しみは反省しない者へのそれよりも強くはならないだろうか?その者の罪は反省しない者よりも重くは無いか?
ここまで考えた時、許して貰えなくても反省し、それを行動で示さなければいけないと強く思った。
親から受けた様々な虐待、私の心を育んでくれた祖母への虐待を止められない自分への怒り、悔しさ、その中での祖母の死、それを軽んじ、その事に対する抗議に不誠実な対応をした者やそれを庇う者達から受けた精神的な苦痛…私という小さな器には全てを飲み込む大きさは無いし、飲み込まなければいけない道理は無い。
しかし怒りと苦しみに飲み込まれて加害者になるわけにはいかない。
そこの折り合いをつけるのが難しいが、昔読んだ本に「ヒト以外の生き物の復讐は自身が受けたのと同等、もしくはそれ以上の苦痛を与えた時に終わる」というのがあったのを思い出した。
罪の対価は過不足ない罰で償うしかない。加害者はそれを測る資格不服を抱く権利も持たないのだろう。(もちろん裁きが下るまで黙っていろと言うのではない。せいぜい藻がいて足掻けばよい)
だから私は許して貰えないとしてもヒトのうちの一人として拝みを続ける。
もし私の生きているうちに答えが貰えなくても、もし貰えたとしてその答えがどんなものであろうとも。
もしこれを読んで下さった後、興味と余裕があれば「自然」と「ヒト」を様々なものに置き換えて考えてみて欲しい。「子」と「親」や「あの人」と「自分」など。