コロナ禍により、緊急事態宣言解除以降、学校を自主欠席しているおうちや、2学期から自主欠席する予定のおうちがあります。
メディアでも取り上げられてるけど、この場合の自主欠席はややネガティブなイメージがあり、非難もあることは分かってる上で、パパさんやママさんが判断してるようです。
そういったおうちでは、家族が責任持って学習指導をしたり体を動かす機会を設け、ちゃんと毎日のスケジュールを立てて、という覚悟のもと、自主欠席を決断しているそうです。
「インフルエンザではワクチンもあるし、まだワクチンもない新型コロナに感染するリスクがある学校に行かせるわけにはいかない。」
「子どもたちの命を守るのが親の使命。」
「国には、登校選択制やオンライン授業の拡充を急いでほしい。」
などなど、ご意見やご要望、思いがあるようです。

さて、ワタシは、「否」です。
まず、新型コロナの全貌が明らかになっておらず、感染が拡大してる現状とはいえ、2月頃に懸念していたほどの「病魔の脅威」では無いことが分かってきているからです。
もともと疾患がある場合や心の問題は別として、感染により命を落とす可能性は低く、子どもたちならなおさらです。

しかし、無邪気な子どもたちは、上手に3密を回避できないかもしれません。
すぐにマスクをとったりずらしたりしてしまうし、あっちこっち触ったりもします。
だから、大人たちが今すべきことは、「今」だからすべきことを教えることだと思います。
この新型コロナに関しての、正しい知識、正しい情報、正しい対策を教え、実践させることが、今やるべきことだと思うのです。
心配・不安・恐怖に対し、徹底的に防戦するのが「自主欠席」だとしたら、共存する術を身につけることが抗戦と言えるかもしれません。
ワタシは、子どもたちには新型コロナの経験をちゃんと積んでほしいのです。
悔しい思いも、イライラやストレスも、そんな中でも楽しめたことや工夫したこと、新たに知ったこと、できたことなど、将来振り返ったときに「良い経験」になってほしいと思うのです。
だから、悪い言い方ですが、「殻に閉じこもる」というカタチになる自主欠席は、守りすぎだと思ってしまうのです。

また、「守りすぎ」という表現が続くけども、「家庭は最後の砦」であってほしく、子どもの意に反して、自主欠席により守ることは、子どもたちの「逃げる境界線・リミット」を下げてしまうと考えます。
自主欠席しているおうちのインタビューやSNSを見ていると、子どもたちは「学校には行きたいけど、コロナが怖いから。」って言ってるものが多いです。
無知で無邪気な子どもだから、と思えるかもしれませんが、子どもたちはそれほどピンチだとは思ってないんです。
ワタシが懸念しているのは、「逃げ癖」がついてしまわないか、ということです。
子どもたちのことは家族が守ってほしいです。
でも、例えば、辛口を味見すらしたことないままずっと甘口カレーとか、ヤケドするかどうかはその子次第なのにスープは毎回冷ましてあげるとか、なんていうか、「転ばぬ先の杖」感が強すぎるんです。
転んだら痛いから、「転びそうになったから杖」ぐらいで良くて、ワタシのイメージだと、現状での自主欠席は、「交通事故が心配だから自転車は与えません」「紫外線が心配だから夏でも長袖を着させる」っていう感じに見えてしまうのです。
これに慣れてしまうと、ちょっとした困難、ちょっとした不都合でも、家族に救いを求めてしまう、ということを心配してしまいます。

そして、何よりも、学校で学べることが、学べません。これは自主欠席うんぬんだけでなく、オンライン授業でも言えることです。
数週間~数ヶ月くらい、とお考えかもしれないけど、子どもたちのこの期間は濃厚で、感受性も高く、好奇心も旺盛です。
子どもたちが学ぶのは、勉学だけではなく、学校というコミュニティでの社会適応力とか、コミュニケーション能力、会話力、環境順応性、などなど。
◯◯力とうまく言えないけども、空気を読んだり、ヒトの顔色や声色を感じ取ったり。
季節を感じたり、風を感じたり、雨の匂いを感じたり。
家族じゃないヒトと過ごすからこそ育まれること、知ること、感じることがたくさんあるのです。
さらに、友だちとのコロナ禍の共有は、将来、語り合う財産になるでしょう。
東日本大震災などの経験が語られ、いかされてるのと同様に、社会に出たときに「あのときはどーのこーの」と語り継がれ、後世にいかされたり、さらには様々な技術開発や発展の種になるかもしれません。
つまり、現状考えられるリスクも、角度を変えれば、「経験」のチャンスだと思うのです。

ただ、大前提はあります。
それは、「新型コロナに感染しないように。」と子どもたちが思っているのはダメで、「自分が誰かを感染させないように。」と思ってることが必要です。
コロナの恐怖は、子どもたちにとっては自分の感染以上に、自分を介して誰かに広げてしまうことだということだとインプットさせてあげないといけません。
その上で、予防を徹底し、時には我慢し、このコロナ禍を乗り越えるということが、子どもたちに経験させてあげたいことであり、だからこそワタシは、過度な自主欠席を「否」だと考えているのです。

賛否両論あると思います。
ワタシも様々なご意見やお考えを聞きたいと思っています。

ワタシは、いわゆる「ほめて伸ばす」という考え方は好みませぬ。
なぜなら、鵜呑みにして、何でもかんでもほめる方がいるからです。
ほめるべきことは、少しでも努力をしたり、勇気を出したり、がんばったことです。
当たり前のことは、ほめなくていいと思うのです。

宿題をやったなら、お疲れ様、ご苦労様、でいいのです。
いつもより早く始めたとか、何かしらの成長・進化があったら、ほめていいと思うのです。
そして、次に宿題+αの学習をしたらほめるとか、前にほめた事柄はもう当たり前としてほしいのです。

こんな風に考えるようになったのは、やはり、親子の実例を見てきたから、でしょうかねぇ。
学習教室などで授業後にお迎えにくるパパさんやママさんが、その日に何をしたかに関係なく「頑張ったねぇ」と迎えるか「お疲れさまー」と迎えるか、です。
前者の「頑張ったねぇ」派は、ママさんにベッタリの一人っ子タイプ。そして、マイペースすぎる子が多く、内からこみ上げるような向上心をあまり感じない印象。
これに対して、後者の「お疲れさまー」派は、ちょいとヤンチャやおてんばさんで、ガサツな一面もあるが負けず嫌いという印象。

あくまでも、印象です。
出迎えの一言が子どもたちの人格形成に影響している、とは言いません。
が、前者のママさんは、なんていうか、ほめるラインが低い。
言っちゃなんですが、「ほめなくていい。むしろ無言でいいのに。」なんて感じることもあります。

つまり、ほめられすぎて育った子と、適度にほめられた子とで、印象がやはり違うので、ワタシは「アンチ ほめて伸ばす」を主張するようになったのです。
適度に、ほめてあげてください。
前進、進化、進歩、プラスαがあったら、ぜひほめてあげてください。
そして、当たり前にできることや、やらなくてはいけないことは、ほめずに、労ってください。

小学校1年生の、足し算を学習する前の単元で、「いくつといくつ。」みたいなのがあります。

そのなかで、数の分解を行う、
4は3と□
6は4と□
9は7と□
10は□と6
などの□埋めの問題に苦労する子も多いのです。
もちろん、□を使った計算式を習うのはまだまだあとなので、3+□=4っていうのはダメです。
また、苦労していても、その後の足し算や引き算の単元では問題なかったりするんです。
でも、小学1年生の↑の□埋めでつまずいてしまう子は、そこに「算数の苦手意識」の芽が出てしまうこともあるんで、すんなりクリアさせてあげるのが一番です。

苦労する場合に多いのが、
4は3と□、の問題で、「7」と答える子。
実は、この単元の前が「あわせていくつ」という内容なので、とりあえず出てる数字を合わせちゃうのです。
そして、小学1年生のこの時期だと「は」「と」に意識がいかないというのもあります。
そんな子には、強引な言葉の問題で「は」と「と」を意識させるのです。
クリームパンはクリームと□
□と生たまごは生たまごかけごはん
カレーライスは□とカレー
うどんと□はカレーうどん
ハンバーガーは□+ハンバーグ
つまり、「◯◯は」の◯◯を作るために必要な何かと何か、っていう考え方を持たせてあげるのです。
そして、数の問題に戻るのです。

が、すでに苦労してる子達は、すぐにできるようにならないと思います。
「数を分ける」というのが実はこの時期の子どもたちには難しいのです。
なぜなら、頭で考えることができる、という自負も芽生えてきてるから、それが足を引っ張るのです。
でも、「あわせていくつ」の時とは違い、頭も指も、上手に使えないことがあります。
例えば、8は6と□、という問題に対峙したとき、両手で8を作るから、分けて数えてくれる手がもうないのです。(目で数えられる子はもう大丈夫)
そんなときは、焦らず、
◯◯◯◯◯◯◯◯ 
という8この◯を書かせて、6こ数えた後に、
◯◯◯◯◯◯/◯◯
というふうに、線で分解させてあげてください。
これをやるとき、無邪気すぎる子は、大きい◯にしてしまったり、雑に◯を書いてしまったり、多く書きすぎてしまったりする場合があります。また、◯を書こうとしないで頭で考えようとする子もいます。
そばでお勉強を見てくれるパパさんやママさんは、そんな子にイラっとするかもしれません。
「せっかく教えてるのに。ヒント出してるのに。いい方法なのに。」って。
が、ここは、こらえてください。
数の分解を学びながら、「問題を解くときには、メモでも図でも、何でも手段を選んでいい」ということを知ってもらうのです。
これ、その後のお勉強でもずっと大切なことです。

そして、◯を書いたりして、問題が解けるようになったあと、その図やメモを消そうとする子がいます。
絶対に消させないでください。消すクセをつけてしまうと、やはりその後のお勉強に影響があって、ひっ算を習った頃に、ノートやプリントの端に書いたひっ算を消すようになってしまうのです。
当然、「見直し」なんてできず、見直す習慣がつきません。
「消さないと(学校の)先生に怒られる~。」
なんて言う子もいます。
怒られません。もし怒る先生がいたら、5流です。モンスターペアレントうんぬん気にせず、文句を言って構いません。
そして、パパさんやママさん「もし消してなくて怒られたら、ちゃんと先生に言ってあげる」って、味方になって、安心させて、どんどんメモ等は残させてください。
ついでに「なんばんめ」の単元でも、メモや図はとても有効です。

本題に話を戻します。
「いくつといくつ」の単元は、小学生になってからの最初のつまずきどころかもしれません。
だからこそ、もしつまずいたら、「つまずいても、教えてもらえば、ちゃんとできるようになる」という成功体験の最初のチャンスでもあるのです。

時代ごとに、流行りの言葉や言い回しというものは存在して、中には社会的にも認可されるものもあります。
スマホや携帯、っていう言葉も、例えば仕事での商談の場で使ったところで何ら問題もないですよね。
でもそういった場には相応しくないものもあります。ワタシなんかの時代は、超○○かな。
もうちょい細かく言えば、「かなり」という言葉も。かなり↓じゃなく、かなり↑です。イントネーション違いです。あ、もうちょい、なんていう表現も、社会的にはダメですな。
で、クラブ↓とクラブ↑、ライン↓とライン↑、などイントネーションで違う物を表す言葉も増えたような気がしますが、「かなり」の例はそれとは別ですよね。
まあ、無理やり強制とまでは言わないけども、口癖のように、かなり↑を使うようなら、本来のイントネーションとは違うということは教えてあげてください。

で、問題は、「ガチ」と「やばい」。
ガチとは、ガチンコが由来ですが、真剣勝負、という意味だそうです。
それを踏まえて、小学校高学年~高校生の会話を聞くと、例えば、
「おまえ、テスト勉強やった?今回の範囲、ガチやばくない?」
「いやあ、昨日、眠さが半端なくてさ。ガチで何もやってない。」
「まじ?点数やばいと補習らしいよ。」
「えー、リアルでやばいな。」
「部活にも出れないっぽい。」
「ガチで!?」
「うん、ガチ。」
読んで、不自然だと感じるかもしれませんが、ガチです。やばいです。
「本当に」というような言葉が、まじ、になり。そして、今はそれが、ガチになり。
形容詞は、やばい、一択になり。
信じられないかもしれないけども、小学生の作文などで、さすがにガチを使う子はいないけども、やばい、リアル、かなりの多用、などなども見受けられちゃうのです。

難しいことをいえば、美しい日本語がどうのこうの…、なのかもしれませんが、そこまでは言いませぬ。
ただ、表現力、言葉の引き出し、さらには、もう少し大きくなって社会という場で使うべき言葉、目上の人に使う言葉など、ということを考えると、いわゆる流行りの言葉には周りの大人も自ら気をつけて、子供たちに対しては注意してあげないといけないと思うのです。
さすがに、ガチを多用するパパさんやママさんはあまりいないけども、パパさんやママさんが使う言葉や表現を子供たちはしっかり聞いているので、家庭での会話は、少しでも正しい日本語でお願いしたいのです。

ちなみに、「ぴえん」とか「ぴえんこえてパオン」などの言葉は、心配いりません。一時のものです。

蛇口の話からノーベル賞まで。
ママさんたちから聞いたお話のご紹介。本当なのか、大袈裟なのかは、わかりません。

① 手洗い場でキョロキョロ。
公園やお店などでの手洗い場の話。
手を洗おうとしてた子が、水の出ていない蛇口の下に手をかざし、不思議そうな顔をしていたそうです。
どうやら、蛇口をひねると水が出ることがわからなかったようで、キョロキョロしてたらしい。つまり、この子はセンサーで水が出る仕様しか知らなかったようです。

② 出しっぱなしで放置。
同じく手洗い場などで、蛇口をひねって水を出したまではいいが、終わったあと、蛇口を閉めずに居なくなってしまったそうです。
これもまた、勝手に止まるシンクなどに慣れているからでしょうね。

③ 水飲み場で大噴水。
最近は減ってきましたが、公園や園庭などにある水を飲む専用の蛇口。真上を向いているやつですね。
初めて使う場合はともかく、いつもいつも、ひねりすぎて大噴水させてしまう子がいるそうです。
真夏ならキャーキャー言って戯れるのはいいけども、お着替えを用意してないときとかは勘弁してほしいものです。
同じ仕様で、以前はプールに目を洗うための水道がありましたが、眼球を傷める可能性もあり、今は使われてないようです。これはこれで、大噴水が楽しかったですが。

で、ワタシが注目したいのは、③です。
今の時代は、ちょっと前に比べて、手先や指先を使う作業が、日常で減っていますよね。
自販機には小銭を入れず、カードやスマホでピッ。
切符は、駅員に渡すのは20年以上前に無くなったけど、自動改札機に入れるという子供にはちょっとドキドキの瞬間も、今は交通系カードでピッ。
ボタンでは無く、ファスナー等のオシャレな服。
プラモデルなんかは、接着剤が危ないと敬遠するおうちもあり。
ラジコンで遊べる場所も無く。

言い出すとキリがないんだけども、実際に学習の場での手先・指先の微調整が効かない子は少なからずいます。
筆圧、消しゴムの力、折り紙やブロック、切り貼り作業など。
4Bや6Bなどの濃い鉛筆が推奨されるのも、このせいかもしれません。

きっと、オトナたちに比べ、指先でスマホ画面をポチポチ押す能力は、優れてるんだろうなぁ、なんて思いながらも、これでいいのかなぁ、なんて疑問もあります。
だって、その子の将来は、無限に可能性があり、また、いくら自動化だのAIだの進んでも、人がやらないといけないことも必ず残る(新たに生まれる)わけですから。

例えば、ノーベル賞で脚光を浴びたリチウム二次電池。
将来、これに代わる小型エネルギーが必ず発明されます。その分野は、主に理科(化学)です。
その基本は、数mgや数マイクロgでの実験室レベルでの研究から始まります。
スパチュラーという耳掻きみたいな匙を使ったり、分析するために指紋などを絶対につけちゃいけない薄ーーーーーーい板などの上にほんのちょっっっとだけの液体を1滴落としたり。
新しい物質や素材の研究は、絶対に将来無くなりません。
だから、頭だけでなく、体の技能もまだまだ必要なのです。

余談ですが、医学の分野も、全てが機械化はまだまだ先です。
ロボット化されたオペレーションもあるけども、操るのは人間。
どんなに頭が良くても、手先が不器用で、力加減の苦手な外科医に、手術されたくないですね。