自分の殻を破ることが。



ロシアに生まれて日本で育ってドイツにいる。

ものすごい珍しいって自分でも思う。

あたしのほかに何人いるんだろうか。


日本人とロシア人、自分はどっちだと思う?

って聞かれて、

答えるとしたら「どっちも。」


ロシアが大好き。

だめな部分も含めて、全部全部大好き。

自分はロシア人でよかったって凄い思ってる。

何があっても国籍は絶対に変えない。

自分はまずはじめにロシア人だから。


でも日本にものすごい影響を受けてるのも否定できない。

むしろ積極的に肯定したい。

街中で日本語見たり聞いたりすると「お?」って思うし、

日本人特有の気遣いも自分にはあると思ってる。

ほかにもちょくちょく「日本人みたいだな、自分。。」って思うことが多々ある。

良い意味でも悪い意味でも。



この2つが混ざり合って変にゆがんだ結果があたしなんだろう。



いつから人見知りするようになったんだろう。

「自分は人とは違う」

変な自信とプライドの塊になって、

自分から人に話しかけることも苦手になった。

「みんな私に興味を持つべきだ」とかいう

意味のわからない自惚れが自分の中にあるのがわかる。いやだ。



ドイツ。

本当に大好きな国。

性格は変われど好き嫌いは変わらないと思う。

ドイツが好きなのは本当だ。


でもドイツに行きたいって思った気持の裏を見ると自分でも情けない。

日本にいては外国人扱いがいや、

ロシアに帰ったらなにもかもわからなすぎて地元人として恥ずかしい、

ドイツにいれば普通にしてれば一般人だし外国人として制度がわかってなかったり何か間違っても大丈夫だっていう安心感を得られる。


裏をのぞけばこれだ。



こっちに来て後悔はしていない。

凄い楽しいし、幸せだと思う。


でもますます自分がいやになってくる。


来たのが遅いという理由を建前にして人としゃべれない自分。

本当は凄い友達欲しい!

でも「みんなもう仲良しグループできちゃってるし」とか自分に言い聞かせちゃう自分。


日本育ちのロシア人だと聞いても

「凄いね」で終わるのが現状。

それが普通だ。悪いのは変な自惚れをもった自分。



もっと人とオープンになりたい。



心理学を勉強したいと思ったのもきっと自分自身を覗きたいって思ったからかもしれない。

こちらも全く後悔はしていない。

正直楽しい。学校休みたいなんて思う日は一切ないし、

むしろ水曜と金曜が休みなのがちょっと残念なくらいだ。


勉強し始めていろいろ考えが変わった部分がある。

精神的な病気についてもそれが言える。


前は精神の病気を「直さなければいけない異常な状態」だと捉えていた。

もちろん言葉にするわけではなく、感覚的に。

そう考えると、病気は悪いものだって思うし、

病気だと診断されたら否定したくなるだろう。自分は正常だ!って。


今はその考えが少し変わった。

今は精神の病気は「治せる異常」と捉えている。

一見前とほぼ変わってないように思えるかもしれない。

でも気持ち的には凄く大きな違い。


きっかけは「性格は直せないけど病気は治せる」という言葉。

教授も深い意味を込めて言ったわけではないと思うけど、あたしの中に凄く響いた。

性格は長期間で形成されて、一定の年齢を過ぎると変えるのは至難の技になる。

これに対して病気は治せるのだ。

自分の異常を病気だと認めないと何も変わらないけど、

病気だとわかれば治せるんだ。



自分の人見知りは性格なんだろうか、病気なんだろうか。

それはわからない。

でも自分は病気だと思いたい。

治したい。


根拠がないわけでもない。

小学生のころ、全く人見知りをしなかった。

転校生が来たら自分から話しかけて一緒に遊んでいた。

男女ともに仲良くできてたし、誰とでもおしゃべりしてた。

これができなくなったのが中学生のときから。

ずっと友達と2人でいたのも大きいんだと思う。

次第にコミュニケーションをとる相手が減っていった。

そして高校にあがるころには立派な人見知りになっていた。

根は違うのだ。


そしてもう一つ。

お酒を飲むと人見知りは消える。

誰ともたわいのない話ができる。

酔うと人の本性が出るというのなら、

あたしの本性は人見知りじゃない。

もっと社交的なんだ。


そう考えたりすると、やっぱりあたしの人見知りは病気なのかなって思う。

病気なら治せる。

精神の病気で大切なのは患者の気持ち。

だったら自分で意識すればちゃんと治せるんじゃないか。

そう思ったりする。


まだまだ勉強し始めて間もないし、はっきり言えばまだ何も学んでない。

でも学んでないなかでも考えさせられることはいっぱいある。

それも勉強の醍醐味なのかもしれない。


もっともっと心理学を追及して、

自分の異常な部分を徐々に治していきたいって思ってる。


芯はそう簡単に変えられるもんじゃないんだから

思いきったことやってもいいじゃないか。


1年後のあたしは今のあたしより何回り大きくなれてるかな

基本的に後悔はしないことにしている。

反省はする、後悔はしない。

後悔は何も生まないから。


今までの人生で反省すべきものはたくさんある。

でも、凄く反省してるのに治ってないものが1つだけある。


弱ってる自分を人に見せないこと


凄く弱ることがある。

いやなことがあったり、不安なことがあったり。

でもつい強がってしまう。

今までそうしてきたから、「弱い自分」を知っている人がいない。

それがまた自分をさらけ出す妨げになってるのかもしれない。


親の前に、弱い自分を出したい。

支えてもらいたい。

早く独り立ちしたい気持ちはあるけど、まだまだ未熟なのはわかってる。

でも親が心配してくれれば心配してくれるほど強がってしまう。

心配をかけたくない。

それが上手く伝えられずに、関係が悪化しちゃう。


本当は、肩を貸してもらって思いっきり泣きたいときもある。

抱きしめてもらいたい時もある。

でも何で反発するんだろうね。

素直になれよ、私。

友達の多くがたった数年でものすごく変わってる。

良い変化も悪い変化も含めて。


何も考えずにへらへら生きてた人が

何かに流されて道を外したり


自分をはっきり持ってた人が

気がつけば芯が抜けてたり


気がつけば数年前の「その人らしさ」が

ただの影のようになってたりしてる。


「個性」は定義するのは難しいものだけど、

無意識の中に出る欲求と知性のバランスなんじゃないかなって思ったりする。

これ書いてる時も自分が何を言わんとしてるのかわからなかったりするけど(笑)


でも前は「これが好きだ」という枠の中でも実際見たら

「好きなはずなんだけどこれはだめだw」ってものもあったのに

今ではそれがもう自己催眠の域に達して

モノそのものを見る前から「それなら好きだ」と決めつけて、

見たときも「好きなはずだ」の催眠にかかったまま喜ぶけど

心の底から嬉しいのかと聞かれるとわからない

そんな人が増えてる気がする。


自分のあるべき姿

自分が好むべきもの

自分が嫌うべきもの

すべてを人工的に作り出して、

本当の自分を失ってる人がいっぱいいる。


個性が消えると面白みもなくなる。

自然なうちに平凡化しているのだ。



私も例外ではないと思う。

毎日を楽しんでた頃の自分は面白かった。

無理に考えなくても自然に出る姿そのものに魅力を感じてくれる人がいた。

今はその名残でしかないと思う。


というかむしろ、自分がそうなったから周りもそうなってるんだろう。

そうならない人は自然と私との距離が広がっていく。

無理に距離を縮めようとすれば逆効果、反発が大きくなる。

それに気がついてからは流れに身を任せることにした。

これが自然体でいられる一番楽な方法。



逆にいい方向に変わった人もそれはもちろんいる。


ただなんとなく生きていただけだったのに

自分の幸せについて考え、日常に潜むそれに気がついて手に入れた人


強い流れの中でも

なんとか持ちこたえて自我を保って強くなってる人



これもまた、自分の変化の表れなんじゃないかと思う。

人は自分を見るための鏡

よく言う言葉ではあるけどその意味について考えた事ってどれくらいあるんだろうか。


柔軟にも芯を持ち続けること

ただ何もないところでそれを実行するのは難しい。

そのために人は目標をもつのかもしれない。

頑張ることこそ、自我を忘れないための一番楽な方法なのかもしれない。