継母から虐待される日々が続く中で優しい周囲の人に助けられる一方、父に母からの暴力を相談した際は「私が悪いことをするからお母さんも怒るだけ」と常日頃の暴力は信じてもらえなかった。


親族で集まった際も私が母のことばかり気にしてチラチラ見ながら怯えていると「そんなにチラチラ見られてるからお母さんも嫌な気持ちになって怒っちゃうんじゃない?」と言われるなどした。


外面の良かった母が周りに私との事をどう話していたかは分からない。

けれど皆母の言葉を信じ、私の態度を見ても私が悪いと言った。


そんな日々が続き、ますます私は家に帰るのが億劫になった。

1人で電車で知らない場所に行き警察に届けられたり、友達がこっそり匿ってくれて1晩家に帰らず大捜索されたり。

この頃私のプチ家出は増えていた。


この期間中母は3回妊娠している。

妊娠している中こんな事があれば余計にしんどくてストレスも溜まるだろう。

けれど私も必死だった。

高いマンションのベランダから落とされそうにもなった。

包丁を投げられたり硬い物で殴られ頭から出血したのは2回。


この家に居るとそろそろ殺されるんじゃないかと思った。

悪循環だ。


そしてある日私は決断した。

けれど正直この時の記憶が何故か私にはほとんど無い。後に人から聞いて微かに記憶が蘇った。


ある日私はいつものように母と弟の買い物と通院に連れていかれていた。

家に1人にすると抜け出して居なくなるから車に乗せて連れていかれていた。

病院やスーパーの中までは連れて行ってもらえず車で待機、その時も逃げないよう裸足で乗せられていた。


近所の弟の眼科に行った際、1人車の中で待つ私は裸足で車を飛び出した。

そしてそのまま保護され気がつけば一時保護所に来ていた。

これは高校生の頃施設の職員の方から聞いた話

裸足でウロウロしてサンダルでも落ちてないかと探した記憶は微かにある。

けれど飛び出した後誰に助けを求めて誰に保護されてどういう経緯で一時保護所に行ったのかは一切覚えていない。

こんな大切なこと忘れるはずが無いと思うのに、まるで覚えていない。


職員さんは「大きなショックやストレスから守ろうとして記憶を封印しているんだと思う。だけどあの時逃げて助けを求めてくれてありがとう。」

そう言ってくれた。その言葉を聞いて私は必死に逃げた小さな自分を想像して涙が出た。


逃げたのは小学5年生の秋か冬頃。

実はその年の夏休みも私は一時保護所で過ごしていた。

その頃私と母はセラピーに通っていて恐らくその中で長期休みを利用して一度離れて暮らしてみる事になったのだろう。


しかし帰宅後状況が良くなることは無く、結果的に一時保護所へ。

そこで数ヶ月過ごした後児童養護施設へと入所した。


そこからの私は今までの事を思い返すと施設は天国のように思えるほど楽しんだ。