824日(土)

 奥州封史片奇説余話 4 【根無藤・四方坂の戦い】




 宮城蔵王の麓に、蔵王町という町があります。この中心部、町役場がある辺りに根無藤の柵があったとされています。四方坂というのはこの蔵王町から笹谷峠を越えて山形方面へいく街道にあったとされています。この二カ所の間での7度の戦闘に及ぶ戦が【根無藤・四方坂の戦い】です。

 根無藤と言うのは、貞任伝説の残る土地で、貞任が馬の鞭に使っていた藤の枝を銀杏の木に差して置いていったところ、その藤の枝が銀杏に絡まって大木になったという言い伝えから、根無藤の地名になったと言います。安倍貞任というのは東北地方どこにいっても人気があって、至るところに名前を見ることができます。正史の中では安倍の勢力は多賀城以北ということになっていますが、実際は白河~いわき以北一帯に安倍の勢力が及んでいたというのは、多くの人が普通に思うことと見えます。


 ところで、この【根無藤・四方坂の戦い】ですが、私は奇妙に思うことがあるのです。根無藤の柵に立て籠もっていたのが金十郎・勾当八・赤坂次郎を大将とする奥州勢。四方坂から根無藤に向かって攻めたのが鎌倉勢で、この中に三沢安藤四朗・飯富源太が加わります。

吾妻鏡の記述と言うのは、あちらこちらで明らかに期日の順序がおかしかったり、地名がおかしく表記されていたり、完全に信用できるものではないのですが、この【根無藤・四方坂の戦い】も私は不自然に思うのです。阿津賀志山の防塁を破り北上する鎌倉軍にとって、街道の順序で言えば、阿津賀志山⇒白石⇒根無藤⇒四方坂となります。しかも四方坂は山形へ抜ける道であり、奥州藤原の本陣がある仙台方面に向かうのであれば、寄り道です。

三沢安藤四朗がどうも白石の人であったとするならば、何がどうなって白石から根無藤を攻めたのではなく、山形側の四方坂から根無藤を攻めることになったのか…あるいはこの様に記述が混乱してしまったのか、なにがしかの理由があると思うのです。




 宮城県や仙台市、あるいは白石市の歴史を調べようとすると、どうしても伊達政宗や片倉小十郎ばかりが目立ち、史書もこの項に多くページが割かれ、歴史の研究もここばかりが目立ちます。この部分の光が強すぎて、その前の歴史にまで目が向けられにくい状況にあるようです。福島県や岩手県の史書に比べ、宮城県の史書に平安時代~鎌倉時代~室町時代の記述が量的にも質的にも弱いように見えます。



 ところが、白石市周辺を指す刈羽郡の史書の中に面白い記述を見つけました。これは平安時代の事を記述しようとして書かれているわけではなかったのですが、どうも白石市の北西部、青麻山から宮城蔵王にかけて、かなり大きな製鉄集落群跡があったというのです。しかも平安時代頃の遺跡だと言うのです。大太郎川という川に沿って16もの製鉄遺跡があり、まるでコンビナートにように機能していたのではないかと考えられると言います。


 私は奥州の製鉄に関しては、ずっと疑問をもっていたのです。平安時代を描いた物語には奥州刀が必ずと言っていいほど出てきます。様々な言われがあるものの、前九年の役・後三年の役で活躍した武神・源義家が持ち、以後代々源氏の棟梁に受け継がれた刀【髭切】は、この奥州刀であり、奥州の栄華そのものが【金】【馬】そして【鉄】で支えられていたと言います。その奥州の製鉄技術や製鉄所、そして刀鍛冶は、いったいどこに消えてしまったのだろうという疑問です。

 製鉄の歴史を調べると、いろいろと面白いことが見えてきます。どうも西日本と東北では製鉄技術がどうも根本的に違うらしいということです。西日本の鉄は砂鉄から造られ、それは【たたら】と呼ばれる製鉄所で造られます。東北の鉄は大陸に近い技術…鉄鉱石を溶鉱炉で溶かしてつくる鉄だったのではないかと言うのです。



 白石には平安時代に製鉄が盛んなところがあった。それは宮城蔵王の東麓から青麻山の南麓にかけての一帯、大太郎川沿いにコンビナートのように機能していた。おそらく大量の鉄の生産と、武器…刀が生産されていた。奥州平泉を支えた鉄の文化は、宮城県南部にまで広がっていた。そしてそれはちょうど、白石、根無藤、四方坂に囲まれた地帯です。


 

 何故、奥州藤原の防御線が阿津賀志山だったのかと考えたこともありました。白河でもなく、仙台あたりでもなく、宮城県と岩手県の県境あたりでもなく、阿津賀志山だった理由のひとつに、この白石の製鉄コンビナートがあったのではないかと思うのは話が飛躍しすぎでしょうか?

 


私はこの日本の製鉄史と合わせて、こんな想像をしてみました。


【根無藤・四方坂の戦い】というのは、根無藤と四方坂の間の一カ所で、7度に渡って戦闘があったのではなく、白石―根無藤―四方坂の三角地帯にある製鉄集落群を巡り、幾度も戦闘が繰り返されたのではないかと。吾妻鏡の中に三沢安藤四朗の活躍の記述は、この銑鉄集落群攻略において白石の人間である三沢安藤四朗の存在が欠かせなかったということだと。そう考えてみていると、吾妻鏡の記述が腑に落ちやすい気がするのです。