715日(金)

奥州封史片奇説余話 (3)





国道4号線から西に、細い道を道なりに5キロほど進むと阿津賀志山展望台に出る事ができます。東から南へかけて広がる福島盆地を見下ろすことのできる絶好のポイントです。

南北に走る東北道、東北新幹線、奥州街道そして、阿武隈川が左右に弧を描きながら南の信夫山に姿を消していきます。信夫山の南側には松川方面から福島盆地へ下る斜面まで見渡すことができます。

奥州討伐の大手軍、総勢25,000が国見の駅にたどりつくまでの様子をこの山の物見櫓から見ていたのでしょうか。

ここに立てば、頼朝が本陣を敷いたという国見の駅の小高い丘も、眼下に見下ろすことができます。それどころか、鎌倉軍の全ての動きを見てとれることでしょう。



源頼朝が国見の駅に陣を敷いたのが87日と吾妻鏡には記載があります。福島に住む人ならこの時期、この辺りは毎日のように夕立があるのを知っています。




七日 甲午 二品(頼朝)、陸奥国伊達郡阿津賀志山の辺国見駅に著御。

しかるに半更に及びて雷鳴す。御旅館に霹靂あり。

上下恐怖の思ひをなすと云々。




盆地特有の暑さと日本海側から奥州山地を越える風の通り道となるこの福島県北から宮城蔵王までの一帯は、梅雨明けから初秋まで毎日のように夕立の降る土地柄です。吾妻鏡にあるような落雷も珍しくなければ、阿津賀志山防塁の土塁もたっぷりと雨水を吸い込んでさぞ扱いづらく、そして厄介な防壁だったろうと思います。

この阿津賀志山防壁に対し、抜け駆けをして先陣を切った7人の武将の中に、葛西清重の名前があります。そもそもこの奥州合戦を調べ始めようと思ったのはこの葛西清重に興味を持ったためでした。この奥州戦争後、奥州総奉行となり奥州藤原氏のあと奥州を実質的に治めた人物です。




阿津賀志山の戦いは、吾妻鏡では畠山重忠が前もって鋤鍬を持った農民部隊を用意し、阿津賀志山防塁の空堀を埋めて阿津賀志山防塁の守備力を無効化して勝利に導いたとあり、その兵略を褒め讃えていますが、戦の勝敗を決めたのは小山朝光ら、7人の若武者が奥羽山地を山形県側に越え、北上して阿津賀志山の北側から阿津賀志山を攻撃したため、藤原国衡の軍が混乱して戦局を決したという記載があります。

この時、小山朝光ら7人の若武者の道案内をしたのが者の名が【安藤次】となっています。もちろん詳しいことは一切触れられておりません。国見町史の中にはこのあと出てくる【三沢安藤四郎】とともに、奥州一帯の商業に携る一族ではないかと考えられる、とあります。



歴史のよくわからない部分というのは、なんとも魅力的に映ります。いくらでも想像が働かせられます。




阿津賀志山に立つと、とても軍勢を持って攻めることができるような山には見えません。けれども阿津賀志山を抑えないかぎり、阿津賀志山の戦いを鎌倉側が勝利で終わらせられるとは思えませんから、きっとこの阿津賀志山の物見を攻撃したことでしょう。

西側の奥羽山地に延びる尾根が、この山への唯一の通路に思われます。夜を徹して行軍し、この尾根を道案内した人間こそ、安藤次なのではないかと思いました。



 阿津賀志山の物見を攻略後、阿津賀志山防塁の北側に出て後方を攪乱し、鎌倉軍は藤原国衡を追いつめていく。吾妻鏡では、国衡は笹谷峠から山形側に逃げる途中、鎌倉軍の追ってに追い付かれ戦死しています。

 笹谷峠とは…東北道村田ジャンクションから山形市へ抜ける奥羽山地の峠の名前です。