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奥州封史片奇説余話(2) 石那坂の戦い





奥州藤原の先陣・藤原国衡の本陣があったとされる阿津賀志山、そして源頼朝が本陣を置いたとされる藤田駅あたりの小高い山の上に立つと、阿津賀志山の戦いがどういう場所で行われたかがよくわかります。両方とも福島盆地を見渡せる絶好の場所にありますが、特に阿津賀志山は東北道も東北新幹線もこの山の裾野を大きく迂回して通るほど、南北の通りに大きく立ち塞がっている山なのです。



阿津賀志山は、地図上では厚樫山と記載されていますが、この名前の由来が非常に気になります。日本語の中で漢字というのは外来語です。漢字の持つ【意味】よりも漢字の持つ【音】の方が重要視されていた時代が長く続きました。阿津賀志山の場合、【津】も【賀】も助詞の【の】の代わりに使われますので、阿津賀志山で意味をもっている文字は、【阿】と【志】と【山】になるのではないかと思われます。【志】がそのまま【こころざし】の意味合いで使われているのか分りませんから一概に言えませんが、【阿のしの山】と訳せます。この【阿】が、阿部の阿なのか、自分のことを指す【あ】なのか、【志】が、【こころざし】なのか【死】なのか。




ところで、福島県相双地区の人たちと話すと、彼らは今でも自分のことを【わ(あ)】と呼びます。「わがの畑で今朝とったものだ」という風に使われています。慣れるまでに最初時間かかりましたが、標準語でも自分の家のことを【我が家】というので、慣れてしまえば非常に心地よく耳に響きます。






 文治5年(1189年)719日鎌倉を出陣した源頼朝率いる大手軍は、729日に白河の関を越え、87日に阿津賀志山の防壁を見渡す藤田駅に本陣を構えた。鎌倉から白河まで約240キロの道のりを約10日、白河から藤田駅までの約80キロも約10日かけて行軍だった。この時、源頼朝の軍勢25,000人、藤原国衡の軍勢20,000人。

 阿津賀志山に至る前には、奥州藤原氏の有力武将・信夫庄司佐藤基治が頼朝軍を迎え討つ。吾妻鏡の中にある【石那坂の戦い】である。佐藤基治は義経の郎党として名高い佐藤忠信・佐藤継信兄弟の父親で、この石那坂の戦いで佐藤基治を打ち破ったのが常陸入道念西で伊達郡を領地とし、伊達氏はここから始まったとされている。



 鎌倉から白河まで240キロを10日で行軍する一方、白河から国見までの80キロにも同じぐらいの日数がかかっている。これを見ると白河の関以北は奥州藤原氏の勢力圏だったのでしょう。あるいは吾妻鏡で添え書き程度に書かれている【石那坂の戦い】は、記述よりも遥かに激しい戦闘だったのかもしれない。

 阿津賀志山の防壁は、頼朝出陣の報に接して奥州藤原氏が急ぎ整えた防壁ということになっている。奥州藤原氏にしてみれば、鎌倉との全面戦争は避けたかった。そのために義経の首を差し出したはずなのだ。全長3.2㎞に及ぶ堀りと土塁との防壁で、堀には阿武隈川の水を引き入れている。国見町史にある試算の中では、のべ40万人~50万人の工事だったとしている。

 藤原国衡の軍勢20000人、この20000人が中心になって工事をしていたとすなら、阿津賀志山防塁の完成までに20日~25日程度必要という試算になる。この防壁完成の時間を稼ぐために最前線に立ったのが信夫庄司佐藤基治ではなかったろうか。義経の郎党として活躍した佐藤忠信・継信兄弟を見ても、武勇に優れた家門だったろう。

 奥州勢の戦を前九年の役から見ると、奥州勢の戦いは、よく川の後ろの高地に柵を設けて戦っている。別に奥州勢に限らず、戦の常套として川を堀に見立て、その後背の山に陣を敷くのは戦いの基本だろう。こういう地形が、白河関以北至るところにある。信夫佐藤氏の領土を考えれば、現在の福島市松川町あたりにも、奥羽山地から阿武隈川まで東西に川が流れ、高台に陣取れるような場所がある。この辺りから時間稼ぎの戦闘があっておかしくない。時間稼ぎの戦いであったなら、阿津賀志山防壁の完成をもって戦端を治め、防壁まで撤退したとも考えられる。

 吾妻鏡の中で、この石那坂の戦いで打ち取った信夫庄司とその一族の17もの首を阿津賀志山に晒したとの記述がある一方で、奥州戦争後信夫庄司は許されて信夫郡に戻ったという記述もあり、この石那坂の戦いの記述は非常に矛盾が多い。


 この【石那坂の戦い】を前哨戦として、いよいよ阿津賀志山攻防戦へと移っていく。