628日(金)

奥州封史片奇説余話(1)




牡鹿半島で葛西家縁の武家寺【大金山・陽山寺】に興味を持った私は、福島県は国見町に足を伸ばしました。

国道4号線、奥州街道を往き来すると、福島市を通る国道4号線が4車線道路から2車線に減り、宮城県への山越え道に入るあたりに【阿津賀志山】という標識を目にします。

源頼朝による奥州征伐に際し、奥州藤原氏がここに防御施設を築きました。奥州街道を西から見下ろすこの阿津賀志山から阿武隈川まで総延長3.2キロメートルに及ぶ二本の堀と土塁からなる二重掘りの防壁です。

文治5年(1189年)、奥州戦争最大にして最も激しい戦が、ここで行われたと言います。




陽山寺との縁から葛西家に興味を持って、まず初めに調べたいと思ったのは奥州藤原氏が滅びてゆく歴史です。先にも書きましたが 葛西家は奥州藤原氏滅亡後の奥州総奉行になり奥州の御家人を統率する立場になります。

奥州藤原氏が滅亡する奥州戦争が、坂上田村麻呂と阿弖流為の戦いや、前九年の役・後三年の役と比べるとあまりにもあっけない。源頼朝が鎌倉から出陣するのが719日。一か月後の822日には平泉に入城しています。軍勢の行軍スピードが平均一日20キロメートルくらいと換算すると、鎌倉から平泉まで約500キロ。行軍だけで25日はかかる計算になります。それにも関わらず、奥州戦争はその出陣から終結までほぼ一ヶ月の間しかありません。戦の神様的な伝説の残る坂上田村麻呂や源義家と比べ、戦が下手という印象の強い源頼朝という認識と歴史の間に相当なずれがあります。

その中でこの阿津賀志山の戦いは87日から810日にかけてありました。これら全て鎌倉時代の歴史書、【吾妻鏡】からの引用です。




福島県伊達郡国見町、この町の図書館で国見町史を紐解くと、やはりこの阿津賀志山の戦いのことは大きな柱となっています。吾妻鏡の矛盾や過ちを指摘しながら、その中で私が興味深く読んだのは、阿津賀志山防塁という強固な防壁をつくったにも関わらず、そして阿津賀志山という難所に陣を持ったにも関わらず、わずか三日でこの陣を抜かれた背景に、どうも奥州一帯で商業活動をしていた一族の協力があったように書かれている点です。

国見町から西の奥羽山地の山間を通って阿津賀志山の背後に出る道案内をしたという安藤次、阿津賀志山の北に位置する根無藤の砦を攻略した三沢安藤四朗と、安藤の名が要所に出てきます。前平泉文化の安部の時代にしても、奥州藤原氏の平泉文化にしても、十三湊を拠点に北方貿易をしていたという話はよく聞きます。



陸奥の国府・多賀城に石碑があります。



去京一千五百里

去蝦夷國界一百廿里

去常陸國界四百十二里

去下野國界二百七十四里

去靺鞨國界三千里



この時代、大陸の靺鞨までの世界観が意識の中に入っているのです。




安藤という一族もまた非常に興味深い一族です。その後安東氏として、奥州藤原氏の末裔として登場してきます。証拠があるわけではありませんが、この時の安藤と、その後の安東は同じ一族として扱われていますし、この安藤家の始まりは安部貞任の第二子、安部高星を祖とするという言われもあります。そもそも安藤の家名自体、安部と藤原の字を取ったようで面白いではないですか。



どうも奥州合戦は、奥州は一丸となって源頼朝と戦っていない節がある。その代表のような安藤家は、奥州一帯の商業を担っていた一族のようだ。安藤家の家祖に安倍貞任の名前が出てきている。




葛西家縁のお寺に炭焼藤太の位牌を見つけ、興味を持って東北の歴史の欠片を拾い始めて早速、なにやら面白い因縁が見え隠れしてきています。