Happy Pants Day

Happy Pants Day

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ああ、とてもいい香りです。こんなにいい香りに包まれたのは、パンツとして生まれて初めてのことかもしれません。私はなんて幸せ者なんでしょう。たとえ、この幸せが、あとほんの少しで終わりを迎えるとしても。


話の始まりは、昨日の晩ごはんまでさかのぼります。

不穏な雰囲気の食卓と、冷めていくママさんのビーフシチュー。目にいっぱい涙を溜めてこぶしを握り締めている愛美ちゃんを、ママさんが厳しい表情で見つめています。いつも通りのはずだった晩ごはんの風景が、食卓にパタパタと走ってきた愛美ちゃんのたった一言で、カチカチに凍り付いてしまったのです。
「ねえ、明日から、パパのパンツ、まなちゃんのと一緒に洗わないで」
ねえ、明日はハンバーグが食べたい、そんな何気ない口調で、なんという、なんという言い草でしょう。開いた口がふさがらないとはこのことです。パンツなので口はないですけども。噴飯ものです。パンツなのでご飯は食べないのですけども。
「愛美っ!」
一瞬の沈黙の後、ママさんの声。パパさんのお尻の下までビンビン響く、迫力のある怒声が響きます。イスに腰掛けようとしていた愛美ちゃんが、一瞬にして「きをつけ」の姿勢になります。そして、愛美ちゃんの大きな目から、ウォシュレットみたいな勢いで、みるみる涙が噴き出してきました。
「どうしたの!どうしてそんなことを言うの!」
「だって、だって」
瞬間湯沸かし器みたいなママさんと、しゃくりあげながら声を絞り出す愛美ちゃん。
「みんな言ってるもん、お父さんのパンツは別々に洗うって」
「みんなって誰?」
三角になった目を、さらにキリキリと吊り上げるママさん。あまりの迫力に、リラックスして緩んでいた私の社会の窓のボタン穴がキュッと引き締まります。
「梨香ちゃんとか、陽菜ちゃんとか、みんな言ってるもん」
名前が挙がったのは、愛美ちゃんと仲良しのふたり組。この前の日曜日もうちに遊びに来て、リビングでゴルフのクラブを磨いていたパパさんに、こんにちはー、なんてニコニコあいさつをしてたのに。パパさんは、いまどきあんなに明るくあいさつができるなんていい子たちだなあ、あんな子たちと仲良しなら愛美も安心だなあ、なんて、近くでお洗濯ものをたたんでいたママさんと、たたまれていた私に話していたのに。
「あのね、愛美」
「いいじゃないか、愛美がそうしたいなら」
ずい、と一歩踏み出そうとしたママさんを遮るように、それまで黙って聞いていたパパさんが突然口を開きました。
「パパは構わないよ、愛美のしたいようにしよう」
にっこり笑うパパさん。吐き出そうとした言葉が宙に浮いて、口をパクパクさせるママさん。そして、思い通りになったというのに、身を固くして立ちすくんでしまった愛美ちゃん。
そして、みるみるうちに愛美ちゃんの大きな瞳から、大粒の涙がぽろぽろぽろぽろと、タンクが水漏れしたみたいにどんどん零れ落ちてきました。愛美、とパパさんが声をかけようとすると、愛美ちゃんは口を富士山みたいなへの字に結んだまま、自分の部屋がある二階に向かってばたばたと走っていってしまいました。
「まったくもう」
肩で息を吐いたママさんが、呆れたようつぶやきます。
「ねえ、あなた、いいの?あんなこと言わせておいて」
まったくもって同感です。私が言うのもなんですが、そりゃあパパさんのパンツなんてきれいなもんじゃありません。雨の日も晴れの日も外を歩き回って頭を下げるお仕事だし(具体的になんのお仕事かは存じません、パンツですから)、まだ三十代なかばとはいえぼちぼち加齢臭も気にしているし、炎天下から車に戻ってきたパパさんのおしりと、営業車の安物のビニールのシートに挟まれるときは、スーツさんと顔を見合わせて、うへえ、とため息をついています。
だけど、汗まみれになるほどがんばって働いているのは、なんのためだと思っているんでしょう。そりゃあ、ママさんは家計のためにパートに出ていますけど、そりゃあ、愛美ちゃんが通っているのはただの市立の小学校ですけど、そんなことは問題じゃありません。パパさんが雨の日も風の日も疲れた体にパンツをはいて汗をかきかき仕事に行くのは、他ならぬママさんと愛美ちゃんのためではありませんか。それなのに…。
「愛美も大人になったんだなあ、嬉しいことじゃないか」
臀部で憤慨する私のことなどどこ吹く風で、パパさんはにこやかにつぶやきます。
「それに、君だって覚えがあるだろう、あのくらいの年頃は父親を疎ましく思うものなんじゃないか」
いたずらっぽくママさんの顔を覗き込むパパさん。
「なによ、わかったようなふりしちゃって」
ぷう、とほっぺたをふくらませるママさん。
「あっただろ?」
「…あったわよ」
「ほらね」
まさに「どやがお(パンツも若者言葉を知ってますよ)」といった風に得意げに笑うパパさんだけど、その笑い声はまるで、使い切って用なしになったトイレットペーパーの芯が回る音みたいなカラカラと乾いた声に聞こえました。

晩ごはんの後、いつも通りにお風呂に入ったパパさんだったけど、いつも洗濯かごの中まで響いてくる音のはずれた鼻歌が、今日は聞こえてきません。その代わりに、ぱしゃぱしゃと湯船で顔を洗う音が聞こえます。寂しそうな水音に混じって、台所からはひそひそと話し声。愛美ちゃんが戻ってきて、晩ごはんを食べているのでしょう。
台所から椅子を引く音が聞こえたのと、パパさんが湯船から上がる水音がざざあと響いたのは、計ったみたいにぴったり同じときでした。


いつも通りの土曜日、ママさんがパパさんをお仕事に送り出し、愛美ちゃんのお昼ご飯を用意している音を聞きながら、洗濯かごの中でうとうとしていると、突然乱暴にかごのふたが持ち上がりました。
なんだ、なんだ。ママさん、もうお洗濯の時間ですか?今日はパートの日だから、かごの中で少しゆっくりできると思っていたのに。そう思って上を見上げると、そこにいたのはママさんではなく、ふくれっ面をした愛美ちゃんでした。
やいやい、昨日パパさんにあんな暴言を吐いておいて、おてんとうさまが許しても、このおパンツ様が許さない…そうタンカを切ろうとした瞬間、愛美ちゃんの両手が私をがっちりつかんで持ち上げました。
あーれー、まさか強行手段に出るというのでしょうか。一緒に洗濯されたくないあまり、私を洗面台の下のごみ箱に…。
動揺する私をよそに、愛美ちゃんはじっと私を見つめると、ぽいっと洗濯機に放り込みました。そして、次は靴下さん、その次はTシャツさんと、次から次へとパパさんの洗濯ものたちを洗濯機に放り込んでいきます。
洗濯機の中で呆然としていると、たどたどしくスイッチを入れる音が聞こえてきました。そして、遠慮がちに蛇口をひねる音。ピ、ピ、と、操作と取り消しを繰り返す機械音、さらにしばらくして、スタートボタンを押す音。洗濯機が、ぐいん、ぐいんと空回りをした後、会社の飲み会でしこたまお酒を飲まされた後にトイレに立ったパパさんのように、勢いよく水が噴き出してきました。
ぐいぐい回る世界の向こうに、真剣な顔をしてこっちを見つめる愛美ちゃんの顔。右手に握った青いふたから流し込まれる、既定の分量よりだいぶ多めな液体洗剤。シャボン玉だらけになった水面には、たくさん、たくさんの愛美ちゃん。何人もの愛美ちゃんたちは、みんな同時に、薄桃色をした液体を、ゆっくり、ゆっくりと流し込んできました。立ち昇る花の香り。歩き回って真っ黒になった靴下も、たくさんの汗を吸ったランニングシャツも、みんなみんな甘くて優しい香りに包まれていきます。
それが柔軟剤の香りであること、そして、愛美ちゃんがお洗濯をしてくれていることに気付くのが遅れたのは、良い香りに夢ごこちだったせいだけではありません。いまだかつて、我が家のお洗濯に柔軟剤なるものが使われたこと、そして、わがままプリンセス(ママさん談)の愛美ちゃんがお洗濯をしてくれたことなど、ただの一度たりともないのですから。ほかの洗濯ものたちがこぞって不安そうな表情でかき回されている中で、私だけがいち早く、愛美ちゃんの意図に気付いていました。
私だって、だてに10年近くもパパさんのおしりを守っているわけではないのです。パパさんの気持ちは誰よりもわかっているし、パパさんに対する愛美ちゃんの気持ちも、パパさんとママさんの次くらいに、わかっているつもりでいたのです。それなのに、昨日は、どうして、あんな風に、思ってしまったのでしょう。
水面をじっと見つめる愛美ちゃん。涙でにじんだ大きな瞳は、本当は「ごめんなさい」を伝えたがっているのです。だけど、新品のパンツのゴムみたいにぴっちりと締め付けるくちびるが、いつもそれを許してはくれないのです。
本当は、パパさんや私のことを汚いなんて思っていないのでしょう?だって、さっきしっかり両手で洗濯機に運んでくれたじゃないですか。
本当は、パパさんが大好きなんでしょう?洗濯機の使い方なんて知らないはずなのに、ママさんにお願いして教えてもらったんですよね。
本当は、パパさんに「いつもありがとう」って伝えたいんでしょう?だってこの香りは、この前みんなで出かけた大型ディスカウントストアで、パパさんと一緒に「いい香りだね」ってニコニコ笑いあってた柔軟剤じゃないですか。あのときはママさんが「うちは柔軟剤なんて使わないからダメ!」って言って買ってくれなかったけど、もしかして、朝からひとりでお出かけして、お小遣いで買ってきたんじゃないですか?
わかりますよ。だって私は、愛美ちゃんが生まれる前から、愛美ちゃんのことを知ってるんですから。
私がパパさんのおしりと運命の出逢いを果たしたのは、パパさんとママさんの結婚式の前日でした。衣装合わせのときのママさんのウェディングドレス姿があんまりにもきれいだったから、自分も少しでも身ぎれいにしたいと、だからいつもは立ち入らないブランドのお店を訪ねたのだと、あの日のパパさんは話していましたっけ。そんな素敵なパパさんの晴れの日を飾るのに、選ばれたのが私だったんです。
結婚式の日、超高級トイレットペーパーよりももっと白くてやわらかなドレスに身を包んだママさんは、本当に本当にきれいでした。うっかり開けっ放しになっていた社会の窓から覗き見て、私も思わず見とれたものです。気付いたママさんにすぐファスナーを閉められてしまいましたけど。
結婚式の日の晩は…おっと、この話はまだ愛美ちゃんには早いですね。ただ、とろけるように幸せそうな二人の姿を、スイートルームの脱衣かごの中から眺めながら、これから始まる新しい暮らしに思いを馳せたものでした。
やがて、愛美ちゃんが生まれて。家族の形がどんどんできあがっていって。
生まれたばかりの愛美ちゃんは、赤ちゃんですから、パンツではなくオムツを履いていましたね。紙オムツなら楽ちんなのに、ママさんのこだわりで、真っ白な布のオムツを使っていましたっけね。
愛美ちゃんの初めてのパンツは、オムツはずしのトレーニングパンツ。丸いおしりにかわいいうさぎさんの絵が描いてあって、そそうをするとうさぎさんが泣いてしまう、楽しいパンツでした。愛美ちゃんは、お気に入りのうさぎさんを泣かせないために、毎日一生懸命おトイレの練習をがんばっていました。
幼稚園から帰ってくると、当時人気だったテレビ番組のキャラクターが描かれたパンツはいつも砂ぼこりで真っ黒で。仲良しのお友達と一緒に、砂場に座っておままごと遊びをしていたんですよね。
小学校にあがると、キャラクターのパンツはいやだ、もっとお姉さんなパンツがいい、なんてちょっと生意気なことを言っちゃって。ママさんが選んでくれたピンクと白のシマシマのパンツをとても気に入っていましたよね。
今年、3年生になって、もう愛美ちゃんのタンスにキャラクターのパンツは一枚もなくなってしまいました。そういえば、愛美ちゃんが大好きだった魔法少女のキャラクターが描かれた最後の一枚のパンツを処分するとき、ママさんは「大きくなったよねえ」なんてパパさんにぼやいていましたっけ。
愛美ちゃんが中学生になる頃には、またおませな友達の影響で、おへそまで隠れるパンツはイヤ、などと言い出すのかもしれないですね。
高校生になる頃には、アルバイトをして貯めた自分のお小遣いで、素敵なパンツを自分で選んで買うようになっているかもしれません。
大学生、社会人になる頃には、つやつやしたサテンや、上質なシルクのパンツを身に着けて、大切な人に会いに行くようになるのでしょう。
そしていつか、世界で一番大切な人のパンツをお洗濯してあげたいと思うようになるんでしょうね。今日の愛美ちゃんが、そうであるように。
そのときまで、愛美ちゃんの成長を見守れないことが、本当に残念です。
私ね、今日でパパさんのパンツを卒業するんです。パパさんはとっても物持ちが良くて、私を大切に大切に履いてくれたんですけど、長い長いお勤めの間に、幅広のゴムはすっかりくたびれて、おしりの生地もスケスケになってしまいました。だから、このお洗濯が私の最後のお勤めです。みそぎを済ませて、明日、燃えるゴミたちと一緒にこの家を出ていきます。
卒業することは怖くありません。だって私はパンツですから。穴があくまで履いてもらえるなんて、光栄の極みです。私にはもったいないくらい。ああ、それなのに。それなのに。神様は最後に、こんなに素敵なサプライズを用意してくれるなんて。
「あなたのパンツをお洗濯してあげたい」
世界一シンプルで、ストレートで、親しみ深い愛情の表現。その瞬間に立ち会えたことを、私はきっといつまでも忘れないでしょう。
愛美ちゃんもいつか、両親のもとを巣立っていくでしょう。大切な人のところへ、白いドレスに身を包み、サムシングブルー、白い下着に青いリボンを結んで。そう、あの日のママさんのように。
ああ、願わくば、愛美ちゃんの手をとるのが、慣れないお店で買ったピカピカのパンツを履いて花嫁を迎えるような、不器用でもまっすぐな優しさと誠実さを持った人でありますように。そして、もし、愛美ちゃんがその人のパンツをお洗濯するときに、ふと、今日のことを、私のことを、思い出してくれたなら。


ああ、とてもいい香りです。こんなにいい香りに包まれたのは、パンツとして生まれて初めてのことかもしれません。私はなんて幸せ者なんでしょう。たとえ、この幸せが、あとほんの少しで終わりを迎えるとしても。
力強く回っていた流れが緩やかになり、わずかな揺れとともに水かさが減り始めます。もうすぐ私のお勤めも終わり。さあ、洗濯機さん、今日はいつもより少し強く回していただけませんか。私の涙も、すっかり脱水されてしまうように。

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