「只今戻りました、陛下」
靫負の命婦の声が、思いの中にあった帝を現実へと引き戻した。
目の前にかしづく靫負の命婦に、暫しぼんやりとしてしまったが、帝はすぐに我に返った。
「それで、どうであった?」
帝は、「帝」らしくあろうとしていた。
一方で、「帝」になり切れぬ自分を知りながら──。
帝は、亡き更衣の実家の様子をこまごまと訊ねた。
靫負の命婦はそれに一つ一つ答えていく。
──亡き更衣の実家は、見た目にも雰囲気も、もの悲しく荒れ果ててしまっていたこと──。
──北の方の痛ましいまでの様子、そして、彼女には、若君を内裏に参内させる意思がないらしいこと──。
それらを、密やかに話し、北の方に預かった返事の手紙を帝に渡した。
それを読むと、
「実に畏れ多いことで……
どうしてよいものか、心の置場も分からぬほどです。
この様な御達しを受けますと、心惑い、暗闇にいるように思い乱れまして──。
──荒き風ふせぎしかげの枯れしより
小萩がうへぞ静心なき──
荒々しい風をふせいでいた木が枯れてしまって、
その木陰にいた小萩のことが気になり、心穏やかではありません。
若君を見守っていた、かの更衣が他界してからというものは、
幼い小萩のような若君の身の上が心配でならないのです」
と、心乱れながら書いてある。
──私はただただ若君のことが気掛かりで──。
そう書いてある手紙の向こう側に──言葉の端々に──北の方の本心が見え隠れしていた。
──若君を守っていたのは亡き更衣──娘であって、帝──貴方ではなかったでしょう?、と──。
──私は、貴方が、若君を守ってくれる「防ぎし木」に──娘の代わりになるとは到底思えないのです、と──。
──現に、貴方は、娘を守ってくださらなかったではありませんか──。
帝は、そんな北の方の本心を知ってか知らずか、
「気持ちが乱れているときだからな……」
と許している。
「心乱れながら書いてある」のだと、見逃している。
そう──彼は──帝は、「帝」らしくあろうとしているのだ──。
最近の帝は、周りの者に自分の取り乱した姿を見せまいと努め、思いを静めている。
しかし、どうしても彼は辛抱がし切れない。
かの更衣と出会った頃──彼女を見初めた頃の年月の思い出までもかき集めるようにして、懐かしさに思いを巡らし続けていた。
そして、一方では、
「あの人が生きていた頃は──片時もあの人を見ずにいられなかったのに──。
こうしてあの人を亡くし、あの愛しい姿を見ずに、よく今まで月日を過ごして来れたもんだ……」
と、不思議な思いもしてくる。
帝は、北の方の手紙を閉じると、星の瞬く空を見上げた。
「故大納言の遺言に違えることなく宮仕えの本懐を貫いてくれたお礼に、あの御老体にも
『あの人が宮仕えをした甲斐があった』
と思ってくれるようなことをしてやりたいと考えていたんだが……。
仕方ない──」
帝はそう言い、北の方を「いとあはれ」と思った。
「こうしてあの人を亡くし、若君をあの北の方から引き離すのも気の毒に思えるが……。
いつの日か、若君が御成人になれば、北の方にも喜んでもらえる機会もあろうし。
その時まで辛抱してもらうとしよう。
北の方には『どうか長生きをなさって、その時まで思い念じませ』と伝えておくれ」
帝の思いは──決まっているのだ。
「帝」として、若君を手に入れる。
何としてでも。
そう決めていた。