天野こずえ『ARIA』考察その① “進歩”と“長期的持続”の概念の両立という奇跡
- 天野 こずえ
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いまからちょうど2ヶ月前のこと、まったく久々に“超感動級”の作品に出会ってしまいました(笑)。
天野こずえ原作のコミック及び、そのアニメーション作品『ARIA』である。
で、「じゃあいったいどこに感動したのか」という問題――渡辺にとって、すべての問題はそこなのだ――。それが最近になったようやく自分の中で解明されつつあるので、今回はその『ARIA』にまつわるいくつかの考察をつらつら述べてゆきたいと思います……。今回は凄い長文になりそう(苦笑)。
■テーマその①■
『模造品の楽園での生の実感』
ここで言う“模造品の楽園”とは、言うまでもなくアクア(=火星)、さらにはネオ・ヴェネツィアの事である。そしてこの『ARIA』の世界観の中でのアクアの位置付けは、環境の悪化したマンホーム(=地球)に対する“人工の理想郷”というものだ。要はアクアはマンホームの代用品、ないし模造品という役割を果たしている、と言ってしまっても過言ではないだろう。そして本作の舞台となる都市、ネオ・ヴェネツィアはマンホームにあるイタリアのヴェネツィアを寸分違わずコピーした都市であり、有り体に言ってしまえば“模造品の楽園都市”なわけである。しかし、ここで注目すべきはそんな模造品の楽園の中で灯里たちが体験することは紛れもない“ホンモノの生の体験”であるということ。模造品の楽園で体験する“ホンモノ”
このフレームワークこそが『ARIA』という作品全体を貫く物語構造、ドラマツルギーであり魅力である、と個人的には思うところ。
■マンホームとアクアの捻れた対比関係■
この作品ではマンホームは徹底した合理主義によって運営される惑星と設定されていて、――“マンホーム”という呼称に反して――どこかよそよそしさを感じさせる場所として描写されている。それは以下のセリフからもうかがえるわけで……。
街はどこも美観化と合理化が進んでいてスッキリしたもんです
買い物も仕事もこことは違って全部家でできるし便利ですよ
でも…そのスッキリして便利な街の姿が物足りなく感じてしまうんですよねー
(Navigation01「水の惑星」より 『AQUA』第1巻所収)
それに対しアクアは火星をテラフォーミングして造られた人工の楽園。しかしそこでは人々は豊かな自然の中――何しろ“水の惑星”なのだから――スローな生活を享受しているわけである。と、ここで“人工の楽園”のアクアより“人類の故郷”であるマンホーム方がよそよそしさを感じさせる空間である、という矛盾した事実が立ち上がってくる。人類が進歩を求める末に人工の楽園を造り出し、そしてたどり着いたのが、そこに流れる時間を余すところなく享受するというライフスタイルだというのは大変興味深い逆説的フレームワークだよなぁ、などと個人的には思うところなのだが……いかがだろうか。本来人工のものであるアクアにおいてよそよそしさから解放される、というこの作品の筋立ては、いったい何を我々に提示するのか。
それは多分「“進歩”と“長期的持続”の概念の両立」なのではないだろうか。
ここで扱う“長期的持続”の概念とは、
「歴史の中で政治的、経済的な変化では動かない、比較的ゆるやかに流れる時間感覚」(byフェルナン・ブローデル1902‐1985:歴史学者)
のことを指す。
だが、“進歩”と長期的持続”の両者は元来オルタナティヴな要素である。なぜなら“進歩”は目の前の風景の更新を絶えず要求するのに対し、“長期的持続”は目の前の風景にある充足に主眼を置くからだ。そのジレンマを従来のSF作品は宇宙時代における地球への郷愁、という形式で表現してきたのだが、この『ARIA』はむしろ逆で、宇宙時代におけるアクア(=火星)への郷愁、という形式で描いているところはたいへん興味深い。それは灯里がマンホームから観光に来た老紳士とじゃがバターを食べながら、「なぜこんな不便な街に住んどるのかね?」と問われるシークエンスにおける、灯里の返答に如実に表れていたわけで……。
- だってマンホームにはこんな美味しいじゃがバター
- もう売っていませんもん
- (Navigatiou01「ネオ・ヴェネツィア」 『ARIA』単行本第1巻所収)
■ネオ・ヴェネツィアという空間にまつわる表現■- では、ネオ・ヴェネツィアにおける“長期的持続”。それはこの作品においてどのように表現されているのか。それはたとえばこのようなエピソードに象徴的に表わされていたわけで……。
- どんな囚人さんも橋を渡る途中に一度は足を止めて
- あの小さな窓から美しいヴェネツィアの街並みを見つめて
- 思わず嘆きのため息を漏らしたそうです
- 私達は今その美しい景色の中でこーしてのんびり過ごせているんですもん
- ため息もんですよねぇ
- (Navigation03「ため息橋」より 『ARIA』単行本第1巻所収)
以上は灯里が――マンホームにあったオリジナルの――ため息橋の名前の由来を暁に解説する一節からの引用なのだが、これはその由来を説明するという意味に先行して、ネオ・ヴェネツィアが“長期的持続”を基底に置いた 空間であることを端的に示すセリフと言える。そこにある風景とともに存在する、“長期的持続”。これこそがネオ・ヴェネツィアという空間そのもの、というわけである。 - 言い換えれば、「過去が集積した結果である現在――そしてその先にある未来――の再発見」といったとろか。その“長期的持続”に根ざした、たゆたう時の流れに身を置くこと……。灯里はそれを指して「ため息もんですよねぇ」と言うわけである。
- 時の流れとともにそこにあり続けるネオ・ヴェネツィアの風景。
- それこそが、この『ARIA』という作品を一貫して流れる時間感覚なのではないだろうか。
さて、そのネオ・ヴェネツィアの風景――そしてそこに流れる時間感覚――をいかにしてこの作品は表現しているのか。そこでポイントとなるのがウンディーネ(水先案内人)の存在だろう。ウンディーネとは、ゴンドラを漕ぎ、ネオ・ヴェネツィアを訪れる観光客を相手に市内の観光案内をする女性限定の職業である。ネオ・ヴェネツィアに住み、他の誰よりも街の様子を知る彼女たちは観光客にネオ・ヴェネツィアの風景を――勿論そこに流れる時間感覚と併せて――見せるわけであるが、それは言い換えれば観光客の視点をネオヴェネツィアと同化させる役割をも担っているという言い方もできるだろう。
そして、この『ARIA』はそのウンディーネたちを主人公とした物語である。つまり、我々はウンディーネの見るネオ・ヴェネツィアの風景をそのままトレースして見ているのだ。
そしてさらに突っ込んで言えば、我々が『ARIA』という作品を通して見ているネオ・ヴェネツィアの“風景”とは、実はウンディーネたちの“心象風景”なのである。
いやぁ、ここらへんのしつらえは非常にうまい具合にできていると掛け値なしに言える。物語構成の勝利といえよう(笑)。そして本作が一般に「癒しの物語」と呼ばれるのも、灯里たちウンディーネの心象風景が長期的持続に根ざした時間感覚に定義されているため、と言い切ってしまっても、まぁあながち揚言ではないだろう。
我々はネオ・ヴェネツィアに流れる豊かな風景、そしてそこに流れる時間感覚をウンディーネたちの目と感性を通じて感じ、それにひどく「癒された」と感じるわけでる。それがたとえ“つくられた楽園”でのことであっても、そこに流れる時間は、紛れもない「ホンモノ」なのだから。
テーマ②『アリス・キャロルにまつわるビルドゥングスロマン―裏テーマ―(仮題)』
へとつづく
