私があまり聞きなれない岩手の山村の葛巻町を訪れた理由は、ここの町役場に勤める青年(40代前半)はその昔、茨城大学の学生として私の店(酒販店)でバイトをしながら私の選挙の運動員として世話になり、また政治とは、行政活動とはなどの議論をした思い出が有り、今般「夢の実現に向けて歩き出した」との事で、その助言や激励で訪れ旧交を温めました。

 町の宿泊施設「グリーンーテージ」で、町の特産である「牛」「ミルク」「山菜」を始め、山ぶどうwineを二本、そして何故かウナギなど特上の料理を、老妻共々に堪能したしだいであります。

 

 朝風呂がきいたのか、二日酔いもなく八時十五分に今日の第一目的地の「葛巻町役場」へ向かった。 川と山に挟まれた狭隘の街並みのはずれに、人口五千人の町とは思えないくらい立派な庁舎なので「ビックリ」、その青年にエールを送り宮古市「浄土ヶ浜」に向かった。

 

 山また山の新小本道路を岩泉方面(岩泉龍泉洞はパス)を経由して宮古市の「浄土ヶ浜」駐車場に十時十分頃に到着、駐車場は、リアス式海岸の崖の上に在り、そこからは奇岩に打ち寄せる白波が砕ける壮観な景色が眺望され、隣接する資料館のエレベーターを使い崖下へ、濃紺の海面を見ながら木道を通り「遊覧船・うみねこ丸」に乗船。 この船は、浄土ヶ浜を囲む岩礁を巡る航路で、浜の白砂を見ることは出来ませんがテレビのnewsで見る通り、ニャンニャンとウミネコたちが船の周りを飛び続けておりました。

 

 本来ですと、乗船場から徒歩で浜へ行きたかったのですが、砂浜歩行と片道十五分との事で、老妻共々「資料館のパネル」で「浄土の世界」を味わいました。

 

 そしてここからは、三陸沿岸道路を使い東日本大震災で大きな被害を被った町に向かいました。

 最初に訪れたのは、宮古市から少し南下した大槌町です。 ここの三階建ての町役場は、大津波により屋上へ避難していた町長さんをはじめ三十人を超す職員さんが帰らぬ人となりました。 私は、大震災一年後、まだ赤茶けた鉄骨の骨組みが残るこの悲劇の場所の小さなお地蔵さんに手を合わせ、その当時、震災復興で国交省から副町長として派遣されていた知己の方にも「励まし」の声を届けた思い出がありました。

 

 そして十三年後再び「手を合わせ」に訪れたのですが、大槌の町は嵩高い堤防や震災復旧道路が縦横に走り、その現場が皆目見当がつかず迷子になりそうでしたが、たまたま道を聞いた娘さんが、道案内をして頂き目指す跡地に着き、娘さんの東北人特有の優しい心に感動しました。

 その跡地は、きれいに整備され小さな小屋に立派なお地蔵さんが安置され、線香の香りと花が飾られまだまだ震災の傷が癒えない現実を感じました。また、隣接する多目的ホール二階の震災資料館を見学し復興のあらましを学びました。

 丁度十二時を過ぎており、そこから車で五分くらいで、やはり大津波に飲み込まれた大槌駅前の復興市場の食堂で、「大ホタテ」と「豚の生姜焼き」を食しました。

 なんと、そこの旦那と話していると「親戚が水戸にいる」、何と何とその親戚人を私が知っており「世間は狭い」と驚きの連続でした。

 

 午後一時過ぎ、また三陸沿岸道路に戻り「釜石」「大船渡」「陸前高田」を経由して三時頃気仙沼市の「東日本大震災遺構・伝承館」にに到着。

 この遺構は、大津波の飲み込まれた旧「公洋高等学校」三階校舎が、津波に飲み込まれたままの状態で保存され、併設された施設で家族を亡くした方の「語り」や被災の実像を映像で伝えており、何と三階の教室には流された乗用車が瓦礫に埋まって保存されておりました。

 この災害の記憶と記録を次世代に残す、大事で大切な取り組みと感じました、この海辺に立つ施設の前は広々とした緑の広場となっており、高齢者の皆さんが穏やかにグランドゴルフに興じておりました。

 

 被災された方々の辛い悲しい歴史と、復興へのたゆまぬ努力を重ねる様々な人々の

様々な力強さを肌で感じながら、更に三陸沿岸道路を南下し、今宵の宿泊地、仙台市の中心街の国分町のビジネスホテルに五時三十分に到着し一休み後、老妻が食べたかった「タンシチュー」と牛タンと仙台の夜の歓楽街を楽しみましたが・・・・・・。

 

        本日の走行距離 295km       計 937km