私が24歳にして、さだまさしさんの仕事などを全てやめて、音楽の勉強のためアメリカへ留学したことは、以前のブログに書きました。実は、その頃、一度日本へ戻ったことがあります。

さださんの「関白宣言」が大ヒットし、そのタイトルの映画が製作されることになった時、さださんが、私に「音楽を担当しないか?」と声をかけてくれたのです。ちょうど運よく、その期間が授業のないタイミングだったので、担当させてもらうことにしたのです。

それまで、テレビも含めて、1度も映像のための音楽を書いた経験がなかった私が、いきなり映画音楽を担当すると言うのは、かなり無謀なことのようですが、せっかくさださんが作ってくれたチャンスは大切にしなければという思いで引き受けたのです。

その当時は、ビデオというものがない時代で、映像は、撮影所で見てその時に頭に焼き付けながら、同時にタイムもストップウォッチで計るという、今から考えると何とも不便な環境での仕事でした。家に戻ってからは、台本を読みながら、映像を思い出し、作曲していくわけです。

当然、現在のように、ビデオを見ながら細かく映像のタイミングに合わせて作曲するなどという事とは、ほど遠い仕事しか出来ません。それでも映像に合わせて音楽を書くということは、ただ良い曲を作曲すれば良いというわけではないので、映画音楽家としての経験のない当時の自分の実力では、現在の何倍も時間をかけてもなかなか仕事が進みませんでした。

与えられた作曲期間も1週間もなく(現在に比べると相当短い)、ほとんど徹夜続きの状態でしたが、締め切りに間に合いそうもない状況に陥り、かなりあせりました。せっかく日本に戻ってきたのだからということで、さださんが自宅に招待してくれて、ステーキを焼いてくれることになっていたのですが、それも泣く泣く断り、仕事に打ち込みました。(その時のことは、今でもさださんに申し訳ないことをしたと思っています。)

結果は、全ての録音を無事に録り終えることができました。

この仕事をやったおかげで、アメリカから帰国して直ぐにそのプロデューサーから市川昆監督の「細雪」の仕事を依頼されたのですから、多少ハードルは高くてもチャンスには、常に前向きに全力でトライするべきだとずっとそれ以降も思っています。