やこんにちは。
気付けば、もう明日にはクリスマスがやって来ます。
クリスマスと言えば、私と先輩は、バッハの「クリスマス オラトリオ」を先月聴きに行ってきました。
でも、同時代のヘンデルの「メサイア」の方が有名でしょう。これを聞くと、クリスマスがやって来たなぁと感じます。
「メサイア」は、とてもドラマティックで美しい音楽と共に、創造主の教えや、その導きをしたイエス・キリストの一生が語られています。
一部、歌詞は、古臭いところもありますが、スピリチュアル的に解釈をすればある部分は今でも鮮やかで深いメッセージを伝えている部分があり、イエス様の誕生のお祝いと共に、「私たちの中のイエス様(内なる神)が誕生して欲しい」という、イエス様ご自身からの願いであるようにも感じています。
・・・このようにひらめいたので書いていたら、ちょうど「クリスマスのメッセージ」
のようになりました。
今回は、ヘンデルのメサイアからの歌詞を抜粋し、そのことからの気づきを書こうと思います。
🌿ヘンデル 「メサイア」から歌詞を一部抜粋と解説:主の道を整えよ(prepare ye the way of the Lord)
全部の歌詞は長いので、割愛しまして、今回このメサイアの曲の中で、簡単に書かれているけど、わかりにくいけど、大切な部分について解説してみます。
2番の歌詞の中で、「主の道を整えよ(prepare ye the way of the Lord)」が出てきます。
そして、続く3番で、どのように整えるかを私たちに福音として伝えられます。
3.アリア(テノール)
全ての谷は高く
全ての山と丘は低くされよと。
曲がったものはひたすらに、荒れ地は平にされよと。
(イザヤ書 第40章4節)
3. Air (Tenore)
Ev'ry valley shall be exalted,
and ey'ry mountain and hill made low;
the crooked straight and the rough places plain.
(Isaiah 40:4)
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長年、解説を書きたかった曲でした。
なかなか書けなかったのですが、いよいよ実感と理解を伴った解説が少し書けるようになったようです。
振り返れば、この5年間(正確に言えば7年)は、私が田舎暮らしを始めてから、東京育ちで引きずってきた自分(のエゴ)の整理がつきはじめた期間でした。
それこそが、まさにこの歌詞の意味するところだった・・・と、気付きました。
この歌詞の部分は、簡単に言えば、「エゴの凸凹を整理し、(内なる)神が発現する道を整えなさい」という意味です。
エゴには凸凹があります。
それを「凸」を「凹」にする、とは・・・例えば、今まで「劣等感」を感じていた人が「優越感」を感じる立場になりなさい、ということではありません。
「凸、凹=優、劣」には「そもそも意味が無い」と悟ることを重ねると「神があなたの道を通ります=神があなたに現われてくる」ということです。
色々な角度から、「エゴの凸凹を少しずつ崩してゆくこと」によって、様々な角度からの「理解」を重ねる・・・「劣等感、優越感」などの三次元的価値観、エゴでゴチャゴチャした価値観で狭まっていた道も次第に広くなり、「神が現われている状態=心穏やかな状態」になってくるということです。
簡単に説明しましたが、実際、自分で観察してこれを乗り越えてくるのは、それなりに年数がかかりました。
もちろん、まだ完成はしていませんが。
ここで、個人的な例えを出して説明してみようと思います。
私は「勉強ができない・苦手、頭が良くない、という劣等意識」からくる自分へのレッテルを払拭するのに苦労してきました。
過去のパターン(三次元的、社会システムの中の上下、出来不出来)に囚われた視点から自分を価値判断していました。
そのため、自分を評価、肯定もなかなかできず困っていました。
また、「お金をまともに稼いでいるか、そうでないか」など、「力」があるかないかで見る癖、によって、劣等意識を感じることもありました。
そのような、諸々の「価値判断」が意識の中にゴロゴロ詰まっていて、都会暮らしを続ける中では限界が来ていました。
田舎暮らしをはじめて、環境や生活状況が変わることによって、その価値判断は、次第に均されてきた部分がありました。
環境を変えてみると、自分の見え方が変わることもありました。
根深いところは、それでもなかなか変わらないところもありましたが、最近は、角度を変えて見ると、自分は簡単に「頭が悪い」とも決めつけられないな、と考えられるようにもなりました。
「今まで大切に持っていたエゴには、価値がない(有限である)」ということが、あれこれ見えてくるように視点が変わってきた・・・ものの考え方が狭かったことに気付き、違う角度からみることができるようになりると、単純な二元論で割り切れないところがわかってきたからです。
ただ、これは、「理解だ」と勝手に思い込んで、自分を肯定しようと「納得を掴む」ようになってはいけないと感じました。
きちんと、二元論が終わる(善悪、優劣が、意味を成さなくなる=ドラマが終わる)ところに持ち込んでゆく努力は、意識的にやって行く必要があると感じています。
しかし、意識の成長の妨げにならないぐらいのレベルに下がったエゴなら、無理に全部無くそうとしなくても良い、取りあわずに放っておく、ということもわかってきました。
部分的には、三次元社会の成功が「内なる神の発現よりも価値がある」と、いまだに信じてしまっている部分も残っており、これからも少しずつ崩してゆく必要はあります。(「こんな勉強しても・・・」と、お金を稼いでいる人と比べて自分が「劣」であると感じる、スピリチュアルの勉強をしているのに、(現世的に具体的な成果を達成していない感じがしているので)価値あることを何もしていない」と思い込む、など)
優劣の意識では割り切れないところが見えてくると「(人と自分を)比較」をする癖から離れられるようにもなってきました。
また、大衆意識(不安恐怖から三次元的社会での価値観に左右されること)から離れられることが出てきて、余計な「エゴの目的を生きること」が少しずつ減ってきました。
以上のことが、「凸凹が減ってきて、神が道を通れるようになる」という感じだと、実感しています。
実際、荒いエゴがある程度落ちて落ち着いてくると、「比較に囚われない→自分の今に集中できる、やるべきこと、やりたいことに集中できる」ようになってきました。それは、「未来にも、過去にも囚われなくなってくる度合いが高くなる」ということでもあるのかな、と感じています。
つまり、「神は今にしかいない=今に集中できる」ということです。過去や未来に囚われる時や、比較(などのエゴ)に囚われる時、というのは、内なる神ではなく「エゴ」に集中してしまっている状態、と理解しています。
今に集中できる度合いが高まってくると「自分の内なる神」を生きられるようになり始めるということだと、今の私は感じています。
大体、「表面的なエゴが落ち着いてくる」と、凸凹が均されて「神が通りやすくなる=神の言葉も受け取りやすくなる」ということですし、受け取りやすくなるなら、そのように生きることも増えてくる・・・。
そうして「神と共にある(=イマヌエル=イエス・キリストの生まれた時の名前)」ということ!を、身をもって実感していくことだと、忘れないでおこうと思いました。
このまま、道を整えようと、来年も自分なりの精進をしてゆきたいと思います。
🌿今年の大きな気づき
今年の大きな気づきは、「過去も今の自分が創造していた」というものでした。
いよいよ、時間を超えてきた理解も出てきたか、と、今年は激しく不調もあったけど、一方では結構な気づきもあったんだな、と振り返ると思いました。
今の自分が気付きや理解、なおかつ血肉化できれば、波動が上がり、過去の自分も変わってしまいます。(そのタイムラインが終わる)
バシャールが言っていたようなことが、真実であることも、実感を伴って来た部分も出てきました!
つまり、やはり、ここから言っても、「今の自分のエゴに向き合い、今均していくしかない」と言うわけです。
が、来年からは、もう少し楽しめるように、を心がけて行きたいと思います。
🌿クリスマス前のキャンドル礼拝に参加して、「油を注いで」もらいました!
八ヶ岳高原キリスト教会という教会が長野県原村にあります。今年も、夕方から始まるキャンドル礼拝に参加してきました。
先輩と私は、2018年のクリスマスから、何回か、ここの教会のクリスマス時期の礼拝には参加しています。
クリスチャンではありませんが、同じ聖書などから真理を学ぶ者としては、イエス様は、私たちにとっても大先輩です。
この世に光をもたらし、死からの復活まで、2000年も前に大活躍をされた大先輩の誕生を、信者の方々と共に一緒に祝わせてもらっています。
道中、霧の立つ幻想的な木立の中を車で走りながら、気付けば、私たちは高原の林の中に立つ教会に当たり前のように出かけられるようになったんだなぁ、と、二人でしみじみ話しをしていました。都会に住んでいた時は、このような美しい場所に来るのに何時間も掛け、イベントや観光が終わって帰ると、都会のゴミゴミした世界に戻り、「あれは一時の幻想だったのか」と思っていた時代を懐かしく思います。
さて、礼拝では、みんなで賛美歌を歌ったり、イエスの誕生の新約聖書の箇所(使徒たちの福音書から)を読んで頂いたりして、イエス様の誕生を祝いました。
入場する時に配られたキャンドルに、一人ずつ火を灯してもらい、それをみんなで十字架状に飾りました。
みんなのキャンドルで暗闇を美しく照らしている様子は、本当に、私たちの行く手を指し示しているかのような感じがしました。
イエス様のような「死からの復活(魂は永遠)」の光の方へ道しるべが光っている、というイメージがしたのです。
それから、牧師さんの御言葉がありました。
「どんな暗闇の中でも、私たちに光があること、神の光が在ることを思い出すことを忘れないように」という、ありがたい御言葉を頂戴いたしました。そして最後の牧師さんの祈りにより、イエス様からの光が分かち合われ灯ったような感じがして、とても力づけられました。
温かな教会のオルガンの演奏や、綺麗な音の出る楽器の演奏、合唱も聴かせていただきました。
温かで美しい教会の中で、魂の光を取り戻す力を得て、一年が締めくくられようとしている感じがしました。
それでは、最後になりましたが、ブログを読まれた皆様にも、それぞれにおいて、光を思い出すようお祈りいたします。



