こんにちは。
前回からの続き、後半です。
イエス様との対話で、迷いを解いてもらっても、なかなか理解できないあおい。
再度イエス様に、迷いを解いてもらいます。
その中で、『新約聖書』の中にある「マタイの福音書20:1-16」にある「ぶどう園の労働者と主人」のたとえ、が出てきます。
皆様の目覚めにも役立ちますように・・・。
🌿後編:今の私のレッスン「全託(宇宙の計らいを信じること)」と「ぶどう園の労働者と主人」のたとえ(マタイの福音書20:1-16)
死者をも復活させた、イエス様との対話:真理を知れば、難病さえも改善できるはずなのに、Aさんは知ろうとしないので、どうしたらよいのでしょうか?
イエス様→イ あおい→あ
前編はこちら↓
あ:でっ、でも・・・そういう話しでしたが・・・しかし・・・私が、早くAさんに話しをし直した方がいいように感じてしまいます。
チャンスを逃してしまうと、時期を過ぎればもっと酷くなるかもしれないし・・・。直接、再度、ゆっくり話をした方が・・・?
イ:そのような心配りが、あなたはできる状態だろうか?先ほどの私の言葉を理解しているのだろうか?
あ:確かに・・・人の念を喰って、ここ数日辛くなっていました・・・。
また、人の想念が入ってくると、自分がどう考えているのがわからなくなり、困ってしまう傾向があります・・・まだ、自分がよく見えていませんね・・・。
イ:内なる神に集中できないからだろう。
集中できない理由は、自分の考え(学び)に不信感を持ってしまい、内なる神からブレるからだ。
それを改めたほうが良い。これから、もっと大切になってくることだ。
あ:わかりました。
イ:ところで、すべての物事は、神に知られていることは知っているだろう?
髪の毛の数でさえ、鳥が落ちることでさえも知っている、と。
すべては偶然ではない。
あ:はい、知っています。
イ:「宇宙の父である神は、神は、わかっているのだろうか?」というのは、「創造、神、内なる神である神の子」への冒涜だ・・・不信からきている。
様々なことが、出来事が、一つずつカードがめくれている・・・。そして、その時で最適な答えが出てくる・・・。
あなたのお父さんの病の時と同じだ。(過去の記事が参考になります→身内の出来事-肉体ではない「魂」の歩みの尊重の機会とみる)
「本人の魂にとって、最適なことが起こり、それを本人が一つずつ受け入れること、受け入れられること」だけを信じてあげなさい。
あなた自身、今から過去を振り返ってみても、結果として「そうであった(魂にとって最適なことが起こる)」とわかるだろう?
あなたは、Aさんのことを見るとき、「あの時、あれがあったから、今あのような不幸に見舞われている・・・」と、一緒にドラマに参加して右往左往し、エネルギーを注ごうとしている。
それでは、「相手の魂にとって最適なことが起こる」ということを、信じていないことになる。
さぁ、「あなただけしか、できないことがあること」を、もっと知りなさい。
そして、それを受け入れ、信じるのだ。それが足りない。
「内なる神が誰の中にもいる」「創造の下、大いなる意識の下に・・・どの人もいる」のだ。
あ:はい、それは真理です。
イ:それを、もっと信じるのだ。そして私(キリスト意識、私の教えなど)も、もっと信じなさい・・・。
何事も、「自分の思い込みのタイミング」で、エゴでごり押しするようなことは、「(宇宙への、お互いの神への)不信感」から出たものだから、止めて行きなさい。
神(宇宙)にゆだねること・・・。それは、「全託」だが、宇宙意識を理解している者たちにしかできないのだ。
それは、特別なのではなく、単に役割なのだ。先に知っている者たちができる役割なのだ。
昨日、先輩に言われていたように、もっと先人として胸を張りなさい。
そして、いずれ、他の者たちにも知ることを助けるのだろう?
そのための、レッスンでもある。
自分を通じて、宇宙意識を信じるとき、全託することを知るときがやって来た。
しばらく前から、聞いていただろうが、なかなか実行することができないのは、まだ見えている「エゴのドラマ」を信じてしまうからだ。
そろそろ、それを止めなければならない。
あ:はい、ありがとうございます。
天と地を繋ぐことを仕事にしたいと思っていながら、そういうことは、口で言うほど中身が判っていないものでしたね。
だんだん、その中身が一つずつ明かされてきています・・・自分の理解と共に。
今の私のレッスンでもあるのですね。
そして、それを受け入れていくことが、Aさんへの「外濠を埋めてやること」・・・に繋がり、彼がいずれは目覚めるかもしれない、あるいは、なんらかのことから魂の計画に目覚め始めることになるのですね・・・それには、私が私の今を信じて、今のレッスンに取り組むということだとわかりました。
(※ここでの『外濠を埋めてやること』:私が、先にスピリチュアルを理解をしていることにより、道しるべを作っておく、という意味で使っています。Aさんが真の救いとなるスピリチュアルや真理を、誤って敵としてしまって抵抗し戦っているためです。)
やはり、そうだったのか、と思いましたが、でも、対話をして頂かなければ、わからないことが沢山ありました。まだまだ気付いていないこともありますが、頑張っていこうと思います。
イ:時期がある、その人の、目覚めの計画が・・・。
あなたにもあったのだ。だから、焦るのではない。
自然とやってくるのだ。
あ:はい、焦りは、「エゴ」ですし、「熱中状態」ですから、「内なる神からのもの」ではありませんね。
直接相手に手を下す、言って解らせる・・・というような、「改宗させる」的なやり方は、コントロールであり、センシティブな相手の反応をかえってねじ曲げてしまい、相手の学びのチャンスを奪ってしまうかもしれませんね。
私にできることは、相手のありようについて見えたことを色々赦すことです。ただ、いずれ気付いて欲しいと思います。
イ:相手のありようをみて、赦しており、ただ、見守っていること・・・そして、信じていることだ。
「自分と同じ芽がある、いずれこの人も目覚める」と。
そもそも、あなただって、非常に狂っていた(エゴにまみれていた)だろうに。
知りたい興味の対象は、恋愛と金とオシャレと余暇の旅と言った、非常に一般大衆的な意識状態から、ここまで・・・真理を知り、人に理解を分かち合おうというところまで登ってこられたんだ。そのような自分を信じられなくて、相手を信じられるのだろうか?
あ:ギクッ・・・汗 じっ、実は、自分がここまで来られたことを、あまり信じていないというか・・・。
でも、そうか・・・最近、「ああ、私はこの道で良かった、他の選択肢はすべてダメだった」と、振り返ってみて本当につくづく思いました。
途中、他の道の方がよく見えて、何度も後悔したこともありましたが、後になって真理を理解し、意識の統合が進んでくると・・・それぞれの取らなかった選択肢の先には、限界が色々想定できて、結局今のバージョンが一番良かったとわかりました。
気付けば、魂の「最高最善」を生きているのかもしれませんね。
魂の最高最善、って、もっと毎日ワクワクドキドキしているようなものだと思い込んでいましたが、実は、淡々と静かな感じで、思ったより地味ですね。内的に落ち着いてきたからそう感じるのかもしれません。
でも、充実はしています。
イ:そのような、「魂の最高最善」を、自分だけが(得られた)というのは、「特別意識」だ。それも捨てられるチャンスだ。
「ぶどう園の例え(ぶどう園の労働者と主人、「マタイの福音書」20:1-16)」を知っているね?初めて読んだときは、随分反発していたのだろうが。
あ:ええ、そうです。
だって、ぶどう園の主である「宇宙の父」は、最初に来て長い時間働いたものも、後からきてちょっとの時間しか働かないものにも、等しい賃金を与える、という話ですね。
最初は、「ええーーっ、私、一生懸命努力しているのに・・・今まで長いこと勉強してやってきたのに・・・その分の対価がないの?!」と、宇宙の父を恨んだというか、酷いと思ったことがありましたが・・・。(汗)
物質的視点(お金や労力、時間、という視点だけ)で、そのまま、たとえ話を受け取ったら「ずるい」と思いました。
でも、そうではないんですね。
私は、「早く目覚めた者も、遅く目覚めた者も、ちゃんと宇宙の父の愛を等しく受け取れる」ということなんだろうと、後からわかりました。
確かにそうですね。私は、自分の闇を真理を理解し、宇宙の父の愛、神の愛を知ることにより、自分を癒せてきました(意識の分離を統合できてきた)・・・。
自分のためにやったのですが、結果としてそれは宇宙の父のために働いたことになりますね。
だから、誰もが自分のために真理を学んでいけば、誰でも同じ分だけ宇宙の父からの報酬(愛)を受け取れるというのは、確かに真理だとわかりました。
それは、イエス様が、最初の方で「同じ宇宙の中に存在している、みんなにもある」ということと、同じことだとも言えますね。
・・・私の解釈が、時間に囚われ、直線的な理解に偏っていただけでした。汗
宇宙の父の愛を、自分もちゃんと受け取れたから、相手も後から来てそうであることを信じてやることですね。
先輩から「神の道に目覚めるのに早い遅いはない」と教えられていましたが、わかってきました。
だから、他の人達に対しても信じます。
イ:そうだ、それでいいのだ。私の言葉を信じなさい。そして、後から来る人達を、それを知った上で励ましなさい。
Aさんは、あなたに非常に大切な学びを提供しているのだ、それに感謝できれば、それは相手の存在意義を認めることになる。
それが伝われば、相手にはいつか変わるチャンスがやってくるだろう。
そして神に委ねるのだ。
あ:長い対話、ありがとうございました!とても参考になりました。
一番は、やはり、「視点を変えるための理解を深めること」に尽きること・・・それが、先輩に言われていたと思うのですが、やはりそうだと、確信できました。
ブログに読みに来て下さった方々に、分かち合います。
読みに来て下さった方々も、それぞれの場で理解を深めることに参考してもらえればと思います。
~・~・~・~・~
長い対話文になりましたが、何か参考になったことがあれば幸いです。
次のコーナー「音楽のお楽しみ」のバッハの曲の紹介になります。
この曲は、記事としてアップするために、先輩に最終的に修正や確認を加えてもらうと、改めて大切なメッセージが含まれているように感じました。
「神の子」として何が大切なのか、私も改めて確認できましたので、こちらもどうぞよろしければ、お立ち寄り下さい。
🌿音楽のお楽しみーBWV132 Bereitet die Wege, bereitet die Bahn! (道を備え、大路を備えなさい)
この教会カンタータは、すごく簡単にお伝えすると、「神が降りてくるから、(神の子として)道を備えなさい、神が通る大路を整えなさい」という主旨の歌です。
聖書で言うと、洗礼者ヨハネが、間もなくやってくる救世主イエスのために心の準備をしなさい、と呼びかける内容です。
キチンとした宗教的な意味合いを含める解釈については、他の方々がネットで丁寧に解説をしているため、私はしません。
ここでは、「スピリチュアル的に実践することにおいての意訳」をしてみます。
神の子が、真理の理解(歌詞では、「信仰」と同じようなもの)により、心の中の「凸凹を均す」ことをすれば、神と一体化する(神と繋がる、宇宙と繋がる、宇宙と融合する)ので、それによって、この地球上に、神が地上に降りてくる、地球に降りてくる。
という感じになります。
J.S. Bach Foundation ルドルフ・ルッツ指揮 による演奏から
https://www.youtube.com/watch?v=HYGAlS6h-Zo
(参考:Youtube Bachstiftung より拝借)
日本語歌詞
(引用:バッハ・コレギウム・ジャパン カンタータ全曲シリーズ Vol.7 、カンタータ第132番<<道を備え、大路を備えなさい>>BWV132 磯山雅訳)
この中の、1.アリア(ソプラノ)の歌詞と、6.合唱の歌詞、だけをご紹介します。(他を紹介すると長くなるため、割愛します)
1. アリア(ソプラノ)
道を備え、大路を備えなさい。
道を備え、
けわしい小路を
信仰をこめ、命をこめて
いと高き者のために、平にしなさい。
メシアが到着なさいます!
6.合唱
あなたの慈しみを通じて私たちを殺し
あなたの恵みを通じて私たちを目覚めさせて下さい。
古き人を病ませてください、
新しき人が生きられるように。
ここ、この現世で幸いに、
心と願いと
思いをあなたに向けながら。
スピリチュアル的解釈:
神の子として目覚め、真理に照らし合わせて自分を観察してみると、自分の意識の凸凹・・・つまり、宇宙意識からどう外れてエゴに傾きすぎているかが見えてきます。
それを実践によって修正していくこと=平に均すことをしてゆきます。「古い人を病ませ」「新しき人が生きられる」、とは「古い自分を終わらせ」、「新しい自分を生きる」ということです。
その繰り返しにより、エゴ(自我)が内なる神の意識に沿うようになり、神の子として内なる神と一体化します。
「道を備える」とはそういうことであり、その活動は見えない領域で次第に広がり、多くの人が参加するようになれば、地球に「神の世界(天国)が降りてくる」・・・つまり、「宇宙意識に基づいた世界が構築される」ということです。
ヘンデルの「メサイア」という、クリスマスによく演奏される曲があります。その初めの方にも、「山と谷を均せ」というような歌詞が出てきます。イエス・キリストが教えたかったことは、そのようなことであるとわかりますね。
話しは、バッハの曲の歌詞に戻ります。
ここでは、ご紹介していない歌詞の部分(バスやアルトのアリアなど)には、「洗礼」や「サタン」という言葉が出てきます。
「洗礼したのに(きずなは破れた)」などのような宗教的な葛藤は、熱心な信者の方々でなればもちろん縁の無いものですが・・・スピリチュアルの世界で私たちが「神の子」として(宇宙意識に沿って)生きていくとき、「道を備えて」いくとき、様々な迷いや葛藤が生じます。その、心情を現わしている歌のようにも感じます。
また、バスのアリアの歌詞には「サタン」と出てきますが、「サタン」は、「エゴの誘惑」を象徴するものです。エゴの誘惑は、この歌詞が作られた時代においても、今においてもあります。一人一人の中において、真理が明らかになるまでは、この葛藤は付きもの、ということですね。
今の時代、「5次元」の波動が降りてきている、と言われています。
地球上には、「神の波動域(高い波動域)」が降りてきているのですが、それは、神の子として、少しずつ凸凹を均している人達の努力において、摩擦が減らされていることが、現実的なありようです。
神の子が、「エゴの誘惑」をどう乗り越え、摩擦を減らす貢献をしていくのかは、それぞれ人の真理の理解と現実世界での実践に掛ってきます。神の子たちの、そうした地道な実践が、「大路を備える」ことにつながります。いずれ地上に天国が降りてくる・・・より、高い波動域が降りてきて地上に広がる、ということなのです。
「神の世界」が宇宙母船のように降りてくる、というのではなく、「神の子」達が、何を選びとり、何をどう学び、それを地上世界に体現していくか・・・それに尽きるのです。神の子は、「地上に天国を反映させる=投影する・・・より正確には「延長」する」存在だからです。
そういう意味では、「神の子」として生きることは、個的な意識の変化が全体に影響を及ぼす、という大きな意図も隠れているんですね。
この曲を聴いて、是非、みなさまも追い風を得て頂ければ、と思います。
また、次回は、この「道を備え、大路をそなえなさい」にまつわる話題が、続きます。
今度は、宇宙仙人と対話をしたので、分かち合います。よろしければ、またお立ち寄り下さい。