僕の受けた精神的な虐待と、それによる心理的な影響について、僕なりの分析をまとめようと思います。

こんなことは今まで考えたこともなかったですが・・

キッカケは、少し前、地元の幼馴染が東京を訪ねてきたときです。

その友人はかなりの曲者で、いわゆる毒親持ちの家庭で育ったって感じです。

 

 

まずは僕の虐待の話をまとめようと思います!

 

 

僕の家庭は、幼い頃から家庭内の環境が悪く、お父さんとお母さんは毎日暴言を吐きながら喧嘩をしていました。

二人の歳の差はなんと父が上の16歳差です!

価値観があうはずがないですね

お父さんはお母さんに時折暴力をふるっていました。お母さんはよく泣いていました。

元々、精神が弱く不安定な母でしたけど、そんな環境もあってか、ひどく精神を病んでいました。僕に当たることもよくあり、僕がテレビのチャンネルを変えただけで家出してしまったり、怒鳴られたりしたこともありました。

この頃、僕は6歳くらいです。当然、僕も泣いてしまうわけです。

すると母は、人が変わったようにこちらに謝り泣き出し、愛してるよ、ごめんね、愛してるよと繰り返して僕を抱きしめます。

『あなたは悪くない、全部私が悪い』といって号泣するものだから、僕は泣いてなんかいられずに母を慰めなければいけないんです。

これが非常に厄介な点で、

僕が悲しんだり、泣いたりするのを見ると、母は、すぐに自分を責めて、思い詰めてしまいます。

毎日毎日両親の怒号をきき、今にも泣き出したいのに、自分が泣き出してしまうと、母が自分を傷つけてしまう。

僕は、むりやり聞こえないふりをして過ごしていました。どうしても泣いてしまう時も、声を殺して、絶対にばれないように一人で泣いていました。

喧嘩が落ち着いて僕の部屋に駆け込んでくるなり、ごめんね、喧嘩して、よという母に、何にも聞こえてなかったよと首を横にふらなければいけないのでした。

パズルを作って気を紛らわせて、駆け込んできたお母さんに出来上がったパズルをみせる。

そうすると、お母さんはホっとしたような顔をして、すごいじゃんと褒めてくれます。

これは小学2年生の僕が編み出した一番うまくやり過ごす方法です。同じパズルをなん度も崩しては、喧嘩のたびに組み立て直していました。

 

時折、母は『お父さんとお母さん、どっちが悪いと思う?』と僕に訪ねてきます。

もちろん、お母さん、なんて答えた場合には殺されてしまう、そんなことは火を見るよりあきらかです。

お父さん、と答えた場合、『じゃあお父さんと結婚したお母さんが悪かったんだね』と怒り出してしまう。

なんてひどい二択なんだ!と思いながら、僕は『どっちも悪くないよ、僕は今幸せだよ』と言わなければないません。

とまあ、こんなふうに母のケアをするのは非常に大変だったわけです。

 

『お母さんの息子に生まれてきて幸せ?』 

『お母さんの愛はちゃんと伝わってる?』

これが母の口癖で、ちょっとでも否定しようもんなら・・

 

こんなふうに面倒臭い母ですが、精神が病んでしまっているだけで、僕のことを心の底から愛していることは十分に伝わってきていました。愛が深すぎるゆえに、自虐的な思考になってしまったのだろうと、今では理解できます。

 

そしてたまに、

『あんたはお母さんとお父さん、どっちの味方なの』

と尋ねてくるときがあります。

もちろん、こんなことを母に訊かれたら、お母さんだよと答える。

そんなふうに、お母さんの機嫌ばかりとっていると・・・

 

『てめえは、ママばかり味方しやがって』

と、こうなるわけですね。お父さんが。

そう、

お母さんの味方をしながら、お父さんにもかなり気を使わなければいけなかったわけです!

この塩梅が非常に難しくて、お父さんにもお母さんにもいい顔をしながら、二人の機嫌をとりもつわけですね。そうしないと、離婚してしまうわけですから。

そんなこんなで、菊池少年は泣いてる暇などなかったわけです。

 

そしてそんな生活が長く長く続いたわけですが、この時菊池少年は小学1〜2年です。甘えたい盛り、わがままいいたい盛りの時期です。もちろん、想像を絶するほどのストレスがかかりました。

そして心身に負担を抱えた僕は、『トゥレット症候群』という精神疾患を患ってしまうわけです。絶望です!

 

これにより、自分たちの過ちに気づいた両親は反省し、家族の理解とサポートとともに病気を克服していく・・・

 

ってなればよかったんですけど、現実はそう甘くありませんでした

僕が疾患を患ってから、お父さんはひどく落ち込んでいました。

『おまえは障害者だから、まともに働けないだろうな。俺たちの老後の世話は誰がするんだ?』

そんなふうな皮肉をよくいわれました。

僕の家庭は一人っ子ですから、息子が障害者になったことがひどくショックだったのでしょう。

そんなふうに心無い言葉をぼくにかけて、症状が出るたびに、うるせえな、やめろ、など暴言を吐きました。

 

本来、トゥレット症候群という疾患は、止めようとするほど、周りが責めるほどに悪化してしまう病気なので、悪循環の中で症状はひどくなっていきました。

それに対して、僕に対して深い深い愛情を持っているお母さんだけは、必死に必死に僕を庇って守ろうとしてくれました。(ちなみにばあちゃんは僕に対してキチガイみてえだなと笑っていましたわら)

僕が精神疾患を患ったのは、母である自分のせいであると床に穴が開くほど謝罪され、号泣し、『ちゃんと産んであげられなかったお母さんが悪い』と自分を責め続けていました。お母さんに抱きしめられながら、僕はトゥレットの症状を必死に抑えて慰めます。

 

僕に暴言を吐くお父さんに、『どうしてそんなことをいうの!!』とお母さん。二人の喧嘩は、僕の疾患をキッカケにさらに激しいものとなりました。トゥレットの症状にお父さんが愚痴をこぼし、お母さんが僕を庇いそれにつっかかり、喧嘩開始!

この王道パターンができてから、喧嘩の頻度はさらにマシマシです。

僕の心の中では、『この喧嘩は僕のせいで起きているんだ。』という意識がありました。

前までとは違う点が一つ。お父さんの怒号と、お母さんの鳴き声。そこにプラスして、僕のトゥレットの声が響き渡り、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図です!

激しい喧嘩の後、『家出するよ!』と意気込んだお母さんによく連れられたドライブで必ず行っていた深夜のマック。あの時のポテトの味はいまだに忘れられないですね。

 

さてトゥレットが発症した後の家庭内はこんな感じなのですが、もちろん僕は小学生ですから、学校に通っています。小学生がトゥレットを発症すると・・・!

 

もちろん、いじめられます!

ここには書いていなかったのですが、家庭内が楽しくなくて、感情や自分を出せない分、学校ではしゃいで楽しんでいました。家には居場所がないので、学校が唯一の居場所でした。

そんな学校でもいじめられてしまうと、とても悲しいです。悲しくて、親に泣きついてヨシヨシしてもらいたいです。それが普通です。

疾患を自虐して笑いを取ったり、いじってきた人にちょけて突っ込んだりして無理して明るく振る舞ってはいましたが、やっぱり疾患のことを揶揄されるとけっこう悲しくて、泣きそうになることも多かったです。

しかし、僕が学校でいじめられているなんてお母さんが知ったら・・・

最悪、自死してしまうのではないか、子供ながらにそんなことを考えているのを覚えています。

僕はいじめのことを隠しました。

学校でいじめられては、帰ったら親の喧嘩をなだめる毎日を過ごしていました。

しかし、さすがに長くは続かず、ついに僕は泣き出してしまい、いじめのことを打ち明けました。

母も泣いていました。父は、二階の自室にこもっていました。

母が台所に行くと、包丁をとりだし、私を殺して、と包丁を差し出してきました。

僕は号泣しながら断ると、じゃあ、あなたを殺して、私も死ぬといいました。

僕は必死にとめました。なんとか落ち着くまで、必死にとめました。

その日は、なんとか落ち着いてくれました。絶対に忘れることのできない経験です!

 

その頃から、僕の中でなにか、覚悟のようなものができあがっていました。

いじめられるのも、両親の喧嘩や離婚騒動も、今自分が辛いのも、ぜんぶ自分と、自分の病気のせいだ、と思い込みました。病気さえ治してしまえば、そして自分が強くなれば、全部がうまくいくはずだ、と考えました。

ちょうど小学4年生にあがるかあがらないかの頃だったと思います。

僕は、トゥレットを無理やり克服しようとしました。

方法はいたって単純で、自傷行為による強い痛みにより、体に拒否反応を植え付ける、といった方法です。

症状がでるたびに、耳、おでこ、爪の付け根の部分あたりを、思いっきり、血が出るまで傷つけました。血が出ても、症状が出る度に引っ掻きました。幸い、トゥレットは、自制の効かない強迫行動が症状なので、痛いからこれ以上無理、、と思ってもストッパーが働かずにひっかけるんですよ!

その頃は身体中瘡蓋だらけでした。それを見た母は、しつこく理由をきいてきますが、ころんだ、とかいってごまかしてました笑

ちょっといたいたしい話ですけど、当時は僕も心がどうかしていたんだと思います。

そうして、責任をとらなきゃの一心に、自傷行為によってトゥレットは少なくなり、やがて治っていきました。

いじめについても、すぐになくしました。

病気は治っても家庭環境は相変わらずなので、学校だけが僕の居場所でした。家と学校での人格があまりにも違うので、自分が二人いるような感覚でした。

 

その後も、何度か包丁も突きつけられたり、僕にもちょっとした反抗期が来たり、母の両親が参入してきたり、、、、ここには書ききれないくらい長い長い戦いの日々でしたが、僕も成長して、だいたいなんとかうまくやってきたので割愛します。そうして今に至るって感じです。

 

かなり端折ったつもいでしたが、実体験をかくだけでも相当長くなりました。

 

ここから、幼少期の抑圧に起因する現在の思考や心理などの分析をしたいと思います。

 

 

その前に一つ!僕は、両親を悪く言うために、この文章をかいているわけではない、ということを伝えておきます。

ここまで、僕は両親のことを恨んだり、悪く言うような言葉がないことに気が付きましたか。

あくまでも分析のために、ここに書き出す必要があっただけであって、僕は両親に、ここまで育ててくれたこと、少しでも愛を持って接してくれたことを心から感謝しています。

 

そしてもう一つ、僕は福島県南相馬市の出身です。東日本大震災における、津波被害と放射能汚染被害の被災地になります。

当時6歳だった僕をつれて、両親は家と仕事を放り出してまで新潟に避難しました。

帰れるかわからない、友人や親と連絡もつかない、仕事もない、子供を守らなきゃいけない。先行きの見えない生活の中で、想像もできないほどの負荷がかかったと思います。夫婦仲は、その頃から悪くなったと思います。辛かったのは決して僕だけではなかったと思います。今僕がこうして生きていられることに感謝をしなければならないことを、僕は何より理解しているつもりです。

 

また、僕が中学3年生〜高校生の始まりくらいの時期には、夫婦仲も次第に安定してきました。

お互いに精神も安定して、ぎこちないながらも家庭を築いています。

家族の中では、あの頃のことはなんとなくなかったことになっています。

しかし、僕への贖罪をするかのように、お父さんもお母さんも、僕に気を遣ってくれます。なんでも好きなことさせてくれました。

仕事を失って、避難が解除されて地元に帰った後、僕たちは決して裕福とはいえない暮らしだったにもかかわらず、両親は一切の贅沢をしないで、僕の大学の資金を少しでも多くためてくれました。

今でも親には一切心が開けませんが、それでも大切な家族だと思っています。

 

影響と特徴については次回に・・

つかれた!

 

https://www.kyoto-be.ne.jp/ed-center/sodan/cp3/3_6sinritokutyou.htm

参考までに。被虐待児の心理の特徴です。