両親が旅館を畳んで隠居したそうだ。
生家を含む旅館とその敷地を売りに出して、今日も知らない誰かが下見に来たんだって。

わし、故郷に愛着みたいなのあんまりなくてね、早く東京出たいなーとか、帰省めんどくせーなーとか思ってたわけ。
20代前半くらいまではね。
でさ、わしにようやく故郷の温泉旅館に連れて行くような友達ができてさ、それが20代半ばくらいかな。
故郷周りの山とか川とかそういうものを面白がる人間がいることを知ってさ。
わしにはつまんないものでも、わしと仲良くしてくれる人が面白いなら捨てたもんじゃないなーって。
程なく後の妻と出会って、何度か山間の曲がりくねった道を歩きながら大声で歌ってみたりさ、まっさらな雪原に横たわってみたりさ。住んでた頃でさえ歩かなかったところに行ってさ、ただの過ぎ去ってくだけの背景が瞼に焼き付いてくるわけ。
それこそ、旅行みたいに、景色とか匂いとか文化みたいなものを発見できたっていう感覚で故郷が色付いていくの。
同時に、遠い遠いしょうもない思い出がさ、鮮やかな色彩を帯びて素敵な思い出に変わってって、妻に昔話をしながら、今まさに素敵と思えるようになっている自身の半生を新たな思い出として噛みしめた。
何もない素敵な場所なのよ。

息子が生まれてね、いま4歳と2歳なんだけど、半年前かな?
去年連れて行ったんだよ。
風呂好きな息子でね。何回も温泉に入って。
今度は真冬に来てソリだのかまくらだので遊ばせようかなって考えてた。

そんでも、両親が隠居ってきいても、「長年お疲れ様」って。
売りに出すってきいても「そっかそっか売れると良いな」って。

今日ね、わしの兄ちゃんが姪を連れて、売りに出した旅館と住居部分のモノを回収に行ったんだって。
卒業文集とか、教科書とかなのかな。
昔買ったCD漫画ぬいぐるみゲーム機玩具ビックリマンシール写真集ビデオ。
まあ要らないよね。
「何か回収しておきたいものあるか?」って。
幾つか脳裏に浮かんだけど、兄の手を煩わせてまで回収しときたいものなんてないんだよ。
先生との交換日記だったりさ、好きだったぬいぐるみたったりさ、授業中びっしり書いた妄想小説とかさ。
要らないけど惜しい。惜しいけど、まあ要らない。そういうものだ。
ホントに回収なんてしなくても全然良い。

でね、兄が撮影した写真を親族グループLINEにアップロードしたわけ。
古びた客室や廊下、階段。
広間、叔父のトロフィーや盾、水牛の角、剥製。
内湯や露天風呂。
見てたら、急に我慢出来なくなってさ、ぽろぽろ涙がこぼれるんだ。
兄が今日見た景色が、その兄と遊んだ記憶と一緒に浮かんで来てさ。
回収したいんじゃないのよ。
帰りたいわけじゃないし、遊びにいけなくなるのが嫌ってんじゃないんだ。
ただ、ずっとそこにあるもんだと思ってたっていうか、そこがそこじゃなくなるなんて思いもよらなかったっていうか。
そこがわし史上初の「わしん家じゃない」瞬間を味わうのよね。
妻子が寝静まったいま、わんわん泣いてる。

息子にもわしにとっての古びた旅館みたいな、思いもよらない当たり前のものが既にでき始めているわけで。
それはきっと要るとか要らないとかじゃなく、あることも意識されないほど当たり前で、しばらく触れなくても平気で、でもなくなると意外なほど激しく動揺しちゃう、よくわからないただの「それ」でしかないやつ。

とりあえず、いまは泣くのを無理に止めたくない。
あそこにあったそれを思って、なんだかわからない動揺に酔っていたい。

ああ、わしの生家はなくなるんだな、って。