◆2021年・年末インタビュー:

 

◆「親しき中にも礼儀あり」(その7):

 

・・・・・・井川治久先生に久し振りにインタビューをしました。やはり、早稲田予備校講師時代に、いちばん御世話になったのは、言うまでもなく、(当時の理事長) 守谷務理事長です。1989年のことでしたか、守谷理事長が「中学部 (中学英語のエリートクラス)」を作ってもらいたいと、井川先生に命じたそうです。そうして、「辞令」に加えて、「万年筆」を手渡されて「井川先生、ペンの持ち方を練習してください」と仰られたのです。(実は、井川先生はボールペンの持ち方が特殊なのです。)「一流のカリスマ講師は、ペンを正しく握って字を書くべきだ」といった趣旨でした。理事長先生は、井川先生の父と同じく★昭和一桁の生まれで同じ年齢だとのことでしたから、井川先生を「若者」として可愛がってくださったのです。1991年でしたか、(当時の)町田校を開くので、町田校・副校長として「高校教員対象の開校説明会で、井川先生が全て、お話ししてください」と言われて、「辞令」が下ったそうです。1988年から、当時の仙台校にも、毎週火曜日に出講して、現在の理事長である守谷たつみ氏には、物凄くお世話になり、井川先生は★心から感謝しているそうです。

 

・・・・・・その後、バブル時代が終わって、「過渡期」がやってきました。井川治久先生が、予備校講師になった動機は、まず第一に、「大学受験生が分かりにくい受験英語の構造を、誰よりも分かりやすく嚙み砕いて解説講義できる★自信があり実践したかったこと」でありましたが、・・・・・・その他に「★大教室の教壇で、大勢の生徒たちの前で喋りたかった」という動機がありました。その「夢」を実現できたのが、早稲田予備校の大教室でした。・・・・・・ところが、1990年代後半の或る日に、理事長室に呼び出されて、当時の理事長先生に「今後は、段々に、昔のような小さい教室に戻っていくでしょう・・・」と言われて、井川先生は、愕然として、一気にやる気を喪失してしまったそうです。・・・・・・井川先生も、この時、まだ「40前の若蔵」で、「★自分のやりたい仕事以外は絶対にやらないという当初からの主義」を貫き、この日に「辞表」を出す決断をしたそうです。 (近年、後輩の予備校講師の間で「井川先生は早稲田予備校を裏切って辞めたのではないか?」といった話題が出るそうですが、上記の話し合いの上で「辞表を提出した」というのが★真実です。) ・・・・・・結局は、当時の理事長先生の「先読み」が正解で、「予備校の大教室(200人~300人教室や500人教室や800人教室)」は、どんどんと、この世から姿を消してしまいました。

 

・・・・・・1999年2月末日で早稲田予備校を去り、母校の代ゼミの大教室の教壇で「★相変わらずの熱血講義」を続けたそうですが、受験英語の授業をスタートした1984年からの「★過労が積もりに積もり拭えなくなるまでに悪化」して、忘れもしない2000年12月13日に(当時の)代ゼミ池袋校の最上階の大教室で、突然にダウンしてしまったそうです。・・・・・・ドクターの一人に、「★全てを投げ捨てて、休養に専念してください!」といったアドバイスを受け、迷うことなく、すぐに「辞表」を出したそうです。

 

・・・・・・その賢明なドクターのアドバイスに従ったことで、以後に、回復。★2021年12月現在では、井川治久先生は「昔と変わらない熱血授業を、週4回限定で、生で遂行している。今は、マンツーマン授業だけしか担当しないけれどね!」と仰っていました。コロナ禍で肥えて高校生の時の体重に戻り、「体力」がついたそうです。

 

(完)