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シニョーリア広場に面して建つのがヴェッキオ宮殿です。左側は1575年製作のネプチューンの噴水。修理中でした。

シニョーリア広場は古くから市場があり市の政治の中心地でもありました。フィレンツェ共和国の政治体制をシニョーリアと呼んでいたためこの名でよばれています。サヴォナローラが”虚栄の焼却”を行ったのも処刑されたのもここです。

ヴェッキオ宮殿の右隣はウフィツィ美術館。

 

ロッジア・ディ・ランツィ(ランツィの回廊)

市の儀式や公開の議会を行う場所として建てられましたが、共和制が崩壊しメディチ家の支配がするようになると市民が集まらないように閉鎖、意図的に彫刻を置きました。ミケランジェロは形が好きでをこのロッジアで広場を囲みたいと思ったそうです。

前の左ペンヴェヌート・チェッリーニ「メドゥーサの首をもつペルセウス」、右ジャンボローニャ作「サビニ女の掠奪」、階段の左古代ローマ彫刻の獅子、右そのコピー。

 

ペンヴェヌート・チェッリーニ「メドゥーサの首をもつペルセウス」1554年

コジモ1世が作らせたものでかって共和国の象徴だった場所に置くことでメディチ家に対抗する者へのけん制であり、ペルセウスが足で踏んずけている死体その末路であることを示していると学びました。

 

ヴェッキオ宮殿

1299年アルノルフォ・デル・カンピオ設計で建てられたゴシック様式の天守閣のような最後の砦として非常に堅固な建物として建てられたので中世のお城みたいです。1314年に高さ94mのアルノルフォの塔も含めて中核部分が完成、プリオリ宮殿と呼ばれ、15世紀から1530年トスカーナ大公国になるまで共和国の政庁舎としてシニョーリア宮と呼ばれ、メディチ家支配時代はドゥカーレ宮と、次いで親しみを込めてヴェッキオ宮とよばれました。ヴァザーリによってウフィッツィ美術館、ピッティ宮とつながっています。現在は市議会と市長のオフィースとして使用されていますが一部公開されています。

ダナエが閉じ込められていそうな塔には独房が2つあって1435年老コジモ、1498年サヴォナローラが投獄されました。塔の上には鐘楼があります。時計は今も動いています。

 

1540年-1550年ヴァザーリがコジモ1世の宮廷にふさわしく設計し増築しコジモがメディチ・リッカルディ宮から移り住み、1565年ピッティ宮に移るまで住んでいました。

 

メインエントランス。

入口の上は「Regum et Dominus Dominantium」(王の王、主の主)の上に「IHS」(人類の救い主イエス)のモノグラム。

正面玄関左はミケランジェロ29歳の時の作品「ダビデ像」のコピ-。メディチ家が追放された時にミケランジェロがドナテッロのユディト(1494年コジモ・デ・メディチが追放された時にリッカルディ宮の中庭から持ってきた作品)があった場所に置かせました。この時レオナルド・ダ・ヴィンチはロッジアに置くことを主張しましたが退けられました。現在オリジナルはアカデミア美術館にあります。

右は1534年ダビデに釣り合うように置かれたのがバンディネッリ「ヘラクレスとカクス」。

この場所にミケランジェロがこだわったのは共和制を守る市民戦士(ダビデはイスラエル国民を守りました)の象徴だったからで、実際にダヴィデ像は2度メディチ支持者から攻撃を受けました。

ドナテッロのユディトがメディチ家に対抗する見せしめとして作られメディチ・リッカルディ宮に置かれいましたが、1494年メディチ家が追放され像がここに移されることで暴君に対する都市国家の勝利を意味が変化し台座に「共和国の救済の鑑として市民がこれを設けた」と刻まれ、市民の勝利と圧制者の敗北を記念するところになっていました。

 

このダヴィデコピーですが、休息の姿勢ですが筋肉や血管が脈打つ様子で動作を起こす前の状態で、共和国を暴君から守るために戦おうとする力と勇気に満ち溢れるイデア的気高さを表現しているのだと学びました。ミケランジェロ自身の詩によると訳し方はいろいろあるそうですが「大理石は観念・着想を余分なものとともに自らに閉じ込め、英知に従う手だけがその観念・着想に到達する」のだそうで新プラトン主義に基づく芸術理論「自然内在美学」に基づいています。

 

 

西洋芸術理論で学んだミケランジェロとメディチ家の関係についての個人的なメモ

 

ミケランジェロは14歳の時からロレンツォ豪華王に庇護されメディチ家に住みロレンツォ主催のプラトンアカデミーに参加して最先端の哲学を学んでいます。1492年17歳の時豪華王がなくなりメディチ家を離れました。

 

1494年メディチ家が追放され、サヴォナローラの改革を経て1501年ミケランジェロの友人ピエロ・ソデリーニが”正義の旗手”(終身国家元首)に選出され、ミケランジェロにダビデ像製作が託され、さらにミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチにヴェッキオ宮大評議会の間の巨大壁画「カッシーナの戦い」「アンギアーリの戦い」が発注されました。レオナルドが途中で製作をあきらめ、ミケランジェロも中断し完成しませんでした。レオナルドに関してはマキャベリの強い推薦だったそうです。

 

この時期ラファエロもフィレンツェにいて2人の天才特にレオナルドから多くを吸収します。

 

1508年ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井画を、ラファエロがラファエロのスタンツェにかかりローマへ移ります。

 

1512年ソデリーニが亡命、メディチ家がフィレンツェに帰還、ロレンツォ豪華王の子教皇レオ10世が選出され、彼の依頼でミケランジェロがフィレンツェに戻りメディチ家礼拝堂の墓碑にとりかかります。

 

1519年ダヴィンチ、1520年ラファエロが死去。

 

1527年メディチ家がまた追放され、ヴェッキオ宮殿2階の窓から何者かが投げた椅子によりこのダビデ像の左腕が折れます。ミケランジェロは最後の共和制政府によりメディチ家の攻撃に備える共和国防衛築城長官に任命されます。

 

1530年共和国が籠城の末降伏、メディチ家が帰還、大勢の指導者が処刑されましたが豪華王の甥で2人目のメディチ家教皇クレメンス7世によりミケランジェロは赦免されましたが、クレメンス7世の子アレッサンドロ・デ・メディチがフィレンツェ公の称号を得てフィレンツェの実質的な支配者となります。

ミケランジェロは墓碑彫刻をそこそこに完成させると完全に共和国でなくなったフィレンツェを捨てローマに移住、システィーナ礼拝堂の壁画「最後の審判」に取り掛かります。

 

1534年アレッサンドロが暗殺されコジモ・イル・ヴェッキオ以来のメディチ家兄脈が途絶え、傍系弟脈からコジモ1世がフィレンツェ公となります。

ヴァザーリ、ブロンズィーノの愛顧を愛顧しヴァザーリはかってミケランジェロとレオナルドが壁画を描いた大評議会の間の壁をメディチ家の栄光を讃える歴史画で覆います。

 

さらにミケランジェロは長生きして次の教皇パウルス3世からも称賛をうけサンピエトロ大聖堂主任建築家に任命されますが1555年次の保守的なパウルス4世により異端者とされました。

 

1564年ミケランジェロがローマで死去、フィレンツェのメディチ家菩提教会サンロレンツォ聖堂でコジモ1世により葬儀が行われました。

 

1569年トスカーナ大公国が成立しメディチ家のフィレンツェ支配体制の完成。

 

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