八極拳修行3日目――馬歩冲捶で崩壊する脚と誇り
「もう歩きたくない」。
そう思いながら私は今日も北京の公園にいた。筋肉痛は昨日の虎抱頭からずっと続いており、もはや上半身は“生きた鉄板”のように硬直している。
それなのに師父が言った。
「今日は“馬歩冲捶”だ。拳を打て」
この瞬間、私の脚の中のすべての筋肉が「解散!」と叫んだ。
馬歩とは、沈むことである
まずは“馬歩”から。
これ、いわゆる「空気イス」である。足を肩幅より広く開き、膝を深く曲げて腰を下ろし、背筋をまっすぐにする。イメージ的には“馬にまたがってる感じ”らしい。
でも私は馬に乗ったことがない。むしろ、馬になった気分だ。重い荷を背負わされ、動けず、ただ耐える。
「このまま10分維持しろ」と師父。
「そのまま呼吸しろ」と師兄(先輩)。
「なぜ私はここに?」と私。
沈んだまま拳を打て――それが冲捶
馬歩をキープしたまま前方にストレートパンチを打ち出す。それが“冲捶(チョンチュイ)”。
理想はこうだ:
・肩を落とし
・腰を回し
・丹田の力を拳に乗せて
・突き出すと同時に全身がピタッと止まる
……実際はこうだ:
・肩は上がり
・腰は動かず
・脚は震え
・拳は届かない
師父がボソッとつぶやいた。「その拳、郵便で送ったほうが早いな」
痛烈な一撃は、拳ではなく言葉から放たれた。
なぜ歩く? しかも馬歩で?
苦しむ我々に追い打ちをかけるように、次の指令が下る。
「馬歩のまま、前に進め。そして打て」
……は?
つまりこういうことだ。
-
沈んだ姿勢のまま横移動(できない)
-
さらに拳を突き出す(無理)
-
しかも全体をリズムよく(笑える)
結果として、私は“沈んだカニ”のような奇妙な動きで前進しながらパンチを放ち、たまに倒れた。隣のアメリカ人留学生も笑って転んだ。
師父は笑っていない。
拳より先に崩れる精神
「拳は身体から。身体は脚から。だから脚を鍛えろ」
これは師父の口癖だ。
この言葉の通り、午後も“馬歩+冲捶”の反復練習が続いた。
太ももが燃える。膝が軋む。腰が崩れる。
それでも師父は拳を見ていた。
「もっと腰を入れろ」「腕じゃなくて体で打て」「拳は“意”を運ぶんだ」
その理屈は分かる。だが脚がそれを受け入れない。
いや、たぶん脚より先に私の心が折れていた。
それでも一瞬だけ「拳」になった
夕方、仕上げの練習が行われた。全員が一列に並び、馬歩から10連続の冲捶。
この頃にはもう、足は棒。腕は鉛。視界はふわふわ。
それでも私は、腹の底から気合いを入れた。
1発目――脚が笑う
2発目――腰がズレる
3〜6発目――意識が飛びかける
7発目――なぜかスローに見える
8発目――拳が「前に行った」
9発目――師父の表情が動く
10発目――音が鳴った
ズン、と鈍い音。
私は確かに拳を突き出し、全身が「止まった」感覚を味わった。
師父が小さくうなずいた。
「今のは“拳”だった」
拳の重み、身体のつながり、全身の一体感――わずか0.5秒の出来事だったが、私は確かにそれを感じた。
北京の夕陽と、ガクガクの脚と、ひとしずくの自信
稽古を終え、ふらふらと帰る道。
ホテルの階段を登るたびに太ももが絶叫する。
でも、なぜか心は静かだった。
あの一発だけで、今日という日が報われた気がする。
拳とは「殴るもの」ではなく、「全身を通して意志を伝えるもの」。
師父の言葉が、少しだけ体に入ってきた気がした。
明日もまた稽古がある。
でも、もう逃げようとは思わない。
なぜなら私は、3日目にして“拳”を少しだけ知ったのだから。
ではまた明朝、馬歩地獄でお会いしましょう。