聖書に記述されている事柄をもとに箴言と訓戒をこのブログに示しています。
あなたは神様から何を示されていますか?また、その声を聞く者ですか?
聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。(マルコ12:29~)
永遠
まずはこのように、この世に生まれ、尚もこのブログに巡り合い。
読者の一人一人がこの足らず者の思いに耳を傾けられること自体、
どれ程の確率を経ての事であろうかを思うと不思議な気持ちにさせられるのである。
戒めを聞くことは人にとっては耐えがたい事である。
それは、その者の弱点を指摘しているのであって、
不確かな証拠を基に述べられるものではないからだ。
まさに世の人々に向けての訓戒はこれである。
悔い改めよ!時は近付いているからである。
基本的な思想に立っているなら、全ての人は死を等しく迎える。
確かに全ての者は死を迎えるのである。
これは、人には耐えがたく、至極s自然的な現象であるにも関わらず
不自然と思うに至る現象の一つである。
なぜなら人は永遠への思いを持っているからである。
人は愛を永遠と信じる。
図らずも、この世での愛を感じたものはそれが一生の時を越え、尚永遠の時
の中で続くものであると信じ、また欲しているのだ。
良い例が、七夕であろう。星に愛の物語を見立て、永遠に近いと思わせるような事例である。
星にさえも、その終わりが来る。
もしも、ゆがんだこの世での欲や、恋慕事情に生きる事を選ぶならば、
間違いなく、それには終わりが来る。厳密に言うとそれは間違いなく失敗に終わる。
なぜならそこには永遠への選択がないからである。
もしも、己の強さ、冨や、功績に生きるのであるならば、それにも間違いなく終わりが来る。
そして、全ては無に帰するのである。
永遠へと思いを向けるならば、全ては空のようなものだ。そこには空虚さだけが残る。
時が近付くと言うのは、終わりの時が近付いているのである。
永遠とはなんであろうか?もしもあなたがそれを考え始めた時に答えは既に見え始めている。
すべからずも、尊い導きと、愛の言葉の中にいる事を知るのである。
永遠は確かに存在する。
全栄光在主
クリスチャンたるは…[001]
どれほどの人が自分をクリスチャンであると考えているだろうか?
統計によると日本の全人口のと0.1%程の人が私はクリスチャンであると告白している。
しかし、本当のクリスチャンは真に少ない。
クリスチャンとは、言語的には「キリストに似た者」として定義づけられている。
そういった意味に基づくならば真にクリスチャンは少ない。
イエス・キリストに似た者であるというのだが、この人物は十字架に架かり、
世の人々全ての罪を一身に背負い、その命を黄泉に渡した。
つまり、これは愛のなせる所業であって、愛のないところにキリストの姿も
香りもないのである。
どれほどの多くの信徒が、教義的な知識へと急ぎ、信仰による支配を
教会内において目指していることだろうか。
ため息の詰まりそうな争いや分派の状況に自らを進ませ、それを自ら是認し、
他者に対しても自らの思想に同意することが救いであると強要する。
度々言うが、例え教義的には正しくとも愛のないところにキリストの姿はない。
キリストの姿もなければ、救いもない、あるのは身を引き裂く呪いと滅びだけである。
まず、これらが起こりやすい状況として。傲慢な思いがある。
その者はその教会生活、奉仕の場にあっては自分を愛することに終始勤めようとする。
自分が奉仕すること、その教会生活をうまくこなすことに、自己の満足を覚えているのだ。
ここにキリストの姿はない。
イエス・キリストは自らを喜ばせることは決してしなかった。
彼はこう祈り給うたのである。
「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」 マタイ 26:39
彼は決して自分の満足を満たそうとはしなかった。
常に主なる天のましますお方の御心を求めたのである。
ここにキリスト者として生きることの何たるかを少なくも見出すことが出来るのである。
全栄光在主