「え、何これ、可愛い〜私、犬、好きなの、飼ってたし。なにこれ、わたしはディオールのものです?」
「ディオール、知ってますか?なんかそこの昔の香水瓶だって言ってました」
「ディオールって、あの、ブランドのこと?偽物だよね?日本語だし」
そう、首元のプレートには日本語で「私はDiorのものです」と書いてある。
それは言われてみれば隠す気のない偽物、パロディということになるが、僕はそのことには今のいまに至るまで全く気づきもしなかった。
なるほどね、と思いながら「あぁ」と息をもらすと、ゆずポンさんは眉を歪ませた。眉間に小さな山と窪みができる。
「え、わかってなかったってこと?うわぁ、まじか、すごいね、さすがに。でも、瓶自体はよくできてるじゃん、可愛い」
ゆずポンさんは、僕を可哀想というふうに見る。
首輪のつけられた光りのない目をした忠実な犬を可愛いと言う。
逆なのにな、と思った。
上手く言えないけど平面的にでなく立体的に、全てが逆なのだという感覚がした。
「それ、歯ブラシのお礼にあげますよ」
「いいの?ありがと、嬉しいっ!エアロバイクは使うの?使わないなら邪魔だし捨てなよ。今日は何食べたの?ちゃんと食べてる?」
ゆずポンさんはなぜこんなに質問ばかりするのだろう。知ってどうするのだろう。
頭の思考の線がほつれる。
余計な糸が絡まり、それを力づくでブチっと引きちぎる。
「大丈夫です、野菜もかなり食べてるし冷蔵庫ぱんぱんなくらいです」
「そう、お昼は何食べたの?」
「夜勤だったので寝てました、カレーとか食べたりしてます」
「カレー、良いね。この時期は湿度高いし食中毒気をつけてね。歯ブラシ、使ってね」
「はい、ありがとうございます」
もう良いだろうということで立ち上がり、帰りを促すようにドアを開ける。
「では、気をつけて帰ってください、歯ブラシありがとうございます、おやすみなさい」
「うん、わんちゃんの瓶もありがとね、またね」
傷んだショートの茶髪がスサスサと揺れながら帰っていくのを見届けてから、カレー鍋の乗ったコンロを点火する。
犬、好みに合ったようで、良かった。
カレーがグツグツと言い始めたあたりでご飯を炊き忘れていたことに気がつき、代わりに切り干し大根を活用してみることにした。
麺っぽいしヘルシーだろうということで、さっそく適当に片手で掴んだ分をタッパーに入れて水道水で浸す。何分くらいやれば良いのだろう。
待ち時間で購入した古本を読むことにして、ちくわからワイングラスに透明(とても薄い黄色)の何かが注がれているイラストの描かれたハードカバーの表紙を開く。
舞台は未来の東京で、個人店の居酒屋というものがほとんど絶滅してしまったなかで生き残ったバーの話だ。
タイトルにもある「FISH CAKE」は練り物という意味があり、様々な穴ぽこを抱えた客が次々来店する店内で、マスターのチクワなる人物が様々なちくわ話を展開していく。字が大きく一話が短いので読みやすい。
三話まで読んだところでハッと顔を上げる。
さすがに大根も潤ったことだろうし、もしかしてビチャビチャになっているかもしれないと急いでタッパーから引き上げこれでもかというくらいによく絞る。
色のついた水は独特の辛酸っぱい匂いを発して両手からシンクに滴り落ちていく。
おそらく浸しすぎたのだろう、ベチョベチョというかかなり柔らかいが気にせずに丼の中央にセットし、もう随分冷めてしまったニンジンカレーをかけてみる。見た目はとても悪い。
かつてのバイト先で拝借して以来愛用しているハイボールジョッキにパック日本酒をとぽとぽと注いで、カレーと共にテーブルに配置する。スプーンとコーラも必要だなと思い、それらも取ってくる。
切り干し大根にカレーの組み合わせは、悪くなかった。そもそも、あまり味のわからない僕にとっては過剰に美味しいより適度にまずいほうが落ち着くということもある。
ちくわを巡るような人生だ。
無限の宇宙のなかで穴を見つけては飛び込んで、いつの間にか終わってしまうトンネルに慌てながら、次の穴に飛び込む。
無防備な僕は穴のなかにいなければ、「なにか」でない側にいってしまう気がして、そのことが本能的になんとも言えず恐ろしいのだ。
僕は、穴ぽこだろうか。
「FISH CAKE」を書いた人物は人々の色んな穴ぽこを観察し、言語化した。
会ってみたい。話してみたい。