世の中はすべて裏表がある、光があれば影がある。生があれば死がある。東があれば西がある。正があれば邪がある。
人の心も同じである。やんちゃ坊主が、子猫をかわいがる。聖職者が犯罪を犯す。人の心の中には常に裏、表がある。人を好きになっても、嫌いなそぶり、嫌いでもないのに愛想笑い。すべて裏表の心である。
では、正直に生きられるだろうか。それは至難の業である。社会において自分に正直に生きることが出来る筈はない。だから悩んだり、困惑したりするのである。
そこにゆがめられた心が生まれたり、正しい心が生まれたり常に表裏一体の自分が生まれるのである。
人間社会は常に苦しみに満ちている。生きるのも死ぬのも苦しみである。病に倒れるのも愛することをするのも苦しみである。これらはすべて執着である。
然し人は執着を無くしたら生きるすべがなくなる。美しい人を見て淡い恋心を持ったり、妄想を抱いたりするのも執着の心である。この執着の心が時には犯罪を犯すのである。金銭欲、愛欲、すべて執着から来る欲である。
この欲を捨てれば、執着もなくなる。ところがこれが捨てられない。夢の中まで出てきてしまう。つまり妄想の世界である。この妄想がひどくなると、ストーカーになったり、横恋慕したりしてしまう。妄想はあくまで自分の中に閉じ込めそっと抱く程度でいい、欲も同じである。
妄想と想像は違う、そこで妄想をやめて想像の世界に入ってみればいい。最近の若者は想像心が無い、色々想像すれば、色々な道があることに気が付くはずだ。想像心が無いから二者択一になり、右か左か、生かすか殺すか、唯それだけになってしまう。
本も読まず、人の話も聞かず、自身の考えだけで突っ走ってしまう。国語の誤解力も無ければ、作文も作れない。又それを指摘する上司や先生もいない。想像力は時として大発明をするということも知らない。空想や想像から今の現代がある。
各いう小生は観音様を恋人に見立て、あれこれ想像する。( 時には妄想に入ることもある)
あのくびれや、悩ましいお顔、見れば見るほど素晴らしい。然し相手は仏様、バチが当たる。かといってまだまだ本人は若いつもり。実際に体力はないが頭は元気。
抱きしめる力ぐらいまだある。まだあるが相手がいない。仕方なく眺めて楽しんでいるが眺めすぎて鼻の下を長くすると、唯のスケベ親父。難しい。抱いたつもりが気が付くと「空」を切っている。呼んでるつもりが声が出ない。気が付くと夢の中だったりする。
それが現実、しかし想像力のおかげで人生楽しく暮らしている。なぜなら観音様が恋人だから。観音様は仏さまの「化身」慈悲の姿で救ってくれる。
慈悲の慈とは「相手に楽しみを与えること」悲とは「相手から苦しみを抜き去ること」とお坊さんが言っていました。だから観音様が好きなんです。