眠気にはZ〇NEをがぶ飲みする男、蕨です。

今回は鹿児島を代表する石橋、甲突川五大石橋――ではなく、同じ石工・岩永三五郎の手掛けたとある石造アーチ橋を取り上げます。

 

地図赤線の橋、永安橋が今回の主役です。

場所は稲荷川の河口付近、祇園之洲のあたり。

 

先に現役の永安橋について軽く取り上げようかなと。

永安橋は現在JR鹿児島駅脇の道と磯街道(国道10号線の鳥越隧道開通以前の旧道)、そして国道10号線からの連絡道路の交差地点に架かっています。交差する川は稲荷川です。

見ての通り桁橋ですが、これは三代目の橋ですネ。

 

橋の先はJR日豊本線を踏切で交差した後祇園之洲町の石橋記念公園脇に通じています。

恐らく欄干の意匠はかつてアーチ石橋であったことを表しているものと思われます。

 

現在の永安橋の親柱。石灯籠をモチーフにしたものになっています。

こちらも三代目橋で新設された親柱になります。

ちなみに三代目橋の架橋は1994年です。察しのいい方なら気付くかもしれませんが、二代目橋は1993年8月の通称8.6水害で被災し三代目が架けられたという訳ですネ。

鹿児島市に現役の石橋が少ないのは大体8.6水害の所為と言っても過言ではないです(過言ではないとは言っていない)。

 

さてそんな永安橋ですが、三代目橋より鹿児島駅側にほんの少し進んだところの看板に記載があります。

永安橋の名前の由来などは正直色んな方が取り上げているのでここでは省略します。

今回注目すべき点はここ。

・鉄道建設の際に現在(三代目の場所)に三連アーチ→二連アーチに改築の上架け替えられた事(これが二代目橋)

 

では一体初代橋はどこにあったのでしょうか。

 

はい、ここです。

え?これはただの鉄道橋だって?

…。

初代永安橋はなんと現在のJR日豊本線の稲荷川橋梁と全く同じ場所に架かっていました。

 

鉄道橋には国鉄時代のレンガ積み橋脚が残っています。

ちなみに初代永安橋が現役であった頃には行屋堀という運河が存在し、現在の鹿児島駅の裏手一帯は島となっていました。

初代永安橋はそんな島と稲荷川の対岸を結ぶ橋だったわけです。

 

初代永安橋の痕跡は現地には一切残っていません。鉄道建設時点で既に全て損なわれていたものと思われます。

 

ただ先ほどの看板の裏手には苔石が散乱していました。

自然のものには見えませんが、これがもし初代、二代目の中詰め材とかだったら浪漫があります。

 

そんな永安橋ですが、石橋の頃の痕跡が二つほど残されています。

それは親柱です。一つは三代目の現橋の袂に佇んでいます。

 

シンプルな造形の親柱の裏には欄干用の窪みがあります。

 

そしてもう一つはすぐ近くの石橋記念公園内にあります。

先ほどのものに比べ文字の彫りが浅く古さを感じます。

 

こちらにも欄干の窪みが残されています。

 

石橋記念公園内の看板地図に記載のある永安橋。

ちなみに木橋時代の名称は塩入橋の為正確にはこの地図は誤りです。

 

今回の探索はここまでとします。