こんにちは〜
ここ数日の北海道は、ぽかぽか陽気に恵まれ、雪解けも進んでおります
私は、毎朝のゴミ捨ては、普段旦那の役割としてお願いしています。
が、先日旦那が泊まりで居なかったので、小4の息子にゴミ捨てをお願いしました。
我が家のゴミステーションは、学校の直ぐ向かい側にあるので学校へ行く時に、一緒にゴミも持って登校します (学校まで徒歩1分の我が家)
しかし、その日の息子はゴミ(袋)を持っている事を忘れていたのか、ゴミ(袋)を持ったまま学校へ
教室へ行く途中の階段でゴミ(袋)に気が付き、戻ったそうです
先生やスクールガードのおじさんに笑われたそうです(笑)
なんとも息子らしいなぁ…と思いました。
これからも、ゴミ捨てお願いしよう!っと
そんな息子に頼まれて、渋々買った
すき家とはま寿司。
↑これ、食べれるのか分からず、発砲スチロールみたな感じで
この、すき家のカレールーの色が赤紫なんですが、私的には普通のカレーがよかった
カレールーだけ残しました。
この可愛いもふもふ
どなたでしょう〜?
大吉〜?
いえいえ……大吉の兄弟犬
『プッテイくん』です
前回のブログで、大吉の兄弟犬が見つかった喜びを皆さんと共感出来て、とても嬉しかったです
そのプッテイくんママさんが、インスタでプッテイくんの写真をあげてくれます
本当によく大吉に似ていて、勝手に我が子のように見守らせて頂いております。
さてさて、11日木曜日は、東日本大震災から
10年という節目を迎えました。
テレビ番組では、心が締め付けらるような映像を目にする度に、涙がじわりじわり……。
子ども達にも、10年前の地震の話しを伝えています。
当時、娘は3才、息子は8ヶ月。
(大吉、五右衛門8才)
当時の事は、記憶にないようです。
しかし、3年前に北海道胆振東部地震を経験、ブラックアウトして、災害の怖さも多少なりとも知っています。
東日本大震災の被害に比べたら、我が家は全然被害はありませんでしたが。
先日、いつも、仲良くさせて頂いている、
リリちゃんソラちゃんママのyuka♡さんのブログを読み、改めて、あの地震の恐ろしをリアルに感じました
そして、金曜ロードショーで、『FUKUSHIMA50 』を見ました。実話を元にしている内容に、当時の政府や上層部の体制に腹が立ちます!
私もあの年の3月は、忘れられない年でした。
ここからかな〜り長くなります。時間がない方はスルーして下さいね。お付き合いして下さる方。どうぞ
当時、3月下旬に旦那の仕事の都合で山形に引越しが決まったばかりでした
初めての地方転勤で私達夫婦も色々話し合い、考えた引越しでした。
まだ、家を建てて4年目だったから、家を空けたくなかったし、他人に貸すのも嫌でした。
旦那だけ単身赴任にしようか?
でも、子ども達もまだ小さいし、パパの存在は大きいし
娘が小学校入学する時に、札幌へ私と子ども達だけで帰ってくる事にして、3年間山形で暮らそう!って事にしました。
家は、他人に貸す事にしました。
(以外と大きい家賃収入になりました)
そんな引越し業者も決まり、実家の母が引越しの手伝いをしに来てくれる日々。
だいたいの家財道具はダンボールに詰め込み、翌週引越し……って時でした。
3.11の東日本大震災が起りました!
北海道は長いグラングラン……した揺れだったと思います。
私と母は、リビングでダンボールにひたすら荷物を詰め込んでいました。
あまりに長い揺れだったので、上の部屋でお昼寝中の娘と息子が心配になり、見に行きました。
地震にも気づかずスヤスヤ寝ていました
大吉と五右衛門は、ワンコラワンコラ
当時は、まだ若かったからねすぐ反応します
しばらくしたら、テレビでも北海道の海岸線の地域にも津波が来たことがわかり、全国的にも大変な被害が出たと感じると共に、鳥肌なたつような怖さを覚えています。
テレビもCMやバラエティ番組、ドラマも無くなり、報道番組一色でしたね。
旦那からも連絡があり、引越しは半月か1ヶ月ぐらい延びるけど、転勤は変わらないと。。。
山形へは、苫小牧港から東日本フェリー仙台着で予約を入れていましたが、東日本フェリーは当面欠航
結局、山形への引越しは、4月中旬に苫小牧港から日本海フェリーで秋田着で山形へ入りました。もちろん、大吉と五右衛門も一緒ですよ
でも、このフェリー、ペット室でケイジに入れての移動で、すごく可哀想でした
五右衛門は、酔いやすい子だったので心配でした。
日本海フェリーは、すっごく揺れまくって、私は、ずーっとグロッキー状態でした
当時の船には一般人はほとんど居なくて、北海道から東北へ派遣される災害派遣の自衛隊さん一色でした。
頭が下がります
実は、私の実家の両親も一緒に引越しの手伝いと子ども達のお守りで山形に来てくれたんです
ゴールデンウィーク前に、東日本フェリーが再開運行したので、4月下旬に帰っていきました。
両親は、宮城県に入り海沿いの凄まじい光景を目にしながら、北海道へと帰宅しましたが、言葉を失うぐらいのショックだった……と語っていました。
私が住んでいた山形は、さくらんぼの生産が日本一の地域。
住んでいるマンションは、さくらんぼ農園が広がりとても穏やかな場所です。
大吉と五右衛門の散歩に、娘の手を引き、息子が乗ったベビーカーをひいて近所をお散歩しました。
近くで畑仕事をしているおじいちゃんから、声をかけられ、はっきり言って方言が強くて何しゃべってるのか聴き取れず(笑)
たくさんの、土つき大根と白菜を、貰って帰って来た事もありました
花笠祭りも見ました。ゲストに友近が来ていた。
時々、まだ1才ぐらいだった息子が喘息の悪化で、山形市の病院で入院することもあり、毎日が子育てに一生懸命な日々でした。
山形県って、子育てにとっても優しい街でして、たくさんの子育て支援施設があり、毎日のように息子を連れて歩きました。娘は、幼稚園に通い
そこでママ友になったお友達は、福島からの避難者の方だったり、横浜から同じ時期に転勤になった方だったり。
そのママ友とは今でも連絡を取り合うぐらいの仲ですが、当時は、震災の事を色々教えてくれて、胸がきゅーん!としました
震災の翌年には、米沢、福島会津の方にも。
2009年の大河『天地人』
もう、米沢の上杉神社では、思わずGACKT(上杉謙信)を思い出し
とにかく、東北は素敵な街でした。
もちろん、仙台にもよくお買い物へ行ったり、利休の牛タンを食べに行ったり
人も地域も東北は本当に優しい街でした。
わずか、3年もしないで、旦那を山形に残して札幌に帰ってきた、私です
今思うと、もう少し、山形に居たかったなぁ
なんだか、最後は完成に思い出話になりましたが、長〜い、文章を最後まで読んで下さった方、本当にありがとうございます