ブログ「~読書と保育~」の私淑として、ブログ名を改めました。
川口創・平松和子著『保育と憲法』
埼玉合研で、一足先に購入しました。
書店での発売日は、2週間先なので、ネタバレはしません。
しかし、法律〔学〕の世界にいた人が、保育の世界に触れて驚いたことは、共感します。
逆に、保育でも同じだと思っていた「個人の尊厳」に、平松先生が同感されたことも、当然だと思ってます。保育士が憲法を知らなすぎるのです(護憲なのに。笑)。
この本のお陰で、平松先生とツィッターのやり取りをさせて頂けるようになりました。
明日の分科会で、私が失礼なことを言って嫌われるまでかもしれませんが。(;^_^A
問題です。
アメリカの文化人類学者ベネディクトは『菊と刀』で、日米の育児様式を対比した。アメリカでは幼年期から青年期にかけて次第に社会的な束縛が増していくのに対して、日本ではその間に社会的な自由が増していくとベネディクトは書いている。
上記 記述は正しいか、間違っているか。
間違っています。日米が逆なんです。それは分かりましたので、正解できました。保育士のアドバンテージですね(笑)。
ただ、ベネディクトの『菊と刀』の分析だったとは、知りませんでした。ベネディクトは、「恥の文化」以外についても、いろいろ日本文化の分析をしているのですね。
3月31日
今の園を退職しました。
理由は、怒鳴る保育や、勉強嫌いの保育士の人間関係、無責任な噂話などなど、大人側の事情です。
それなのに、子ども達は、大泣きして、別れを惜しんでくれました。子ども達の泣き顔は、とても美しかったです。
子ども達、ごめんね。そして、こんな先生のために、泣いてくれてありがとう。
保護者の方々も、保育園の中の人間関係にうすうす気づいていたんですね。最後の最後に、あたたかいご配慮、ありがとうございました。
2年間の保育園での仕事で、今の保育実践の問題点が、少しわかったというか・・・なんでやねん!? という疑問が増えたようです。もう少し、他の保育園を見て回ろうと思います。
保育園!!!私たち 声をあげます!2017
行ってきました。保育士は、議員会館で議員に陳情をして回りました。感触がよいのは、左寄りの政党ですね。
保育士さん達は、公立や社会福祉法人の労働組合の方々です。株式会社が運営する私の園には労働組合がありません。
ですから、びっくりしました。
いぜん、園のベテランの先輩に、「保育士の待遇改善には労働組合を作ったらいいのではないか」と聞いてみたら、返って来た言葉は、「そんなことすると、園児に対する性的イタズラをでっち上げられて、クビになるわよ」、でした。クビどころか、保育士資格が剥奪され、マスコミに報道されちゃいます。
怖い世界だなぁ、とそのとき思いましたが、今回ご一緒させて頂いた方々も、この話をしたら、同じ反応でした(苦笑)。
今回は、情報交換も有意義でした♪
法律学と保育 2
性善説と性悪説という対立があります。
これに対し、保育はというと、保育「学」は性善説だと思います。有名なルソーの著書「エミール」はその冒頭で「万物をつくる者(神)の手をはなれるとき、すべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる」と説き、性善説をとりました。
ところが、保育「実践」では必ずしも性善説ではないようです。
先週のことですが、ある年中組の女児がお漏らしをしました。ズボンとパンツを脱がせて、水洗いをしている間に、女児には、着替え袋から新しいズボンとパンツを取り出して着替えるよう指示しました。
水洗いをしていると、この女児が「パンツがない」と言って来ました。そこで、保育園のパンツを貸しました。
ところが、次の日の連絡帳に、「着替え袋にパンツはあったが、気に入らないため、園のパンツを借りたと言っている。」と書いてありました。
女児の担任Tから、私が着替え袋を確認しなかったため、この子が叱られなくていいのに叱られたと、激怒されました。
確かに、子どもは、けっこう嘘をつきます。午睡時間に、寝たくない子どもは、「おしっこ(したい)」と言ってトイレに行って遊んでいることが多いです(うちの園だけ?)。
でも、女児の下着のおしゃれ心まで疑う必要があるのでしょうか。
性悪説の保育をしていれば、確かにトラブルは減るような気もします。
でも、想像して下さい。子どもの訴えに対して、いちいち「それ本当?」って眼差しを向ける先生を。
「自分は信じてもらっていない」という感触を日常的に受けている子どもの発達が、果たして正常にとげられるのでしょうか。
保育「実践」では、少なくとも「子どもの嘘を見抜く」先生が優秀とされています。
しかし、私は、「子どもを信じて、騙されていたら、そのときは、『信じて貰えなくてもいいの?』っていちいち指導する」先生でいたいと思います。
こうして見ると、
法律学・法律実務、保育実践・・・性悪説
保育学・・・性善説
ということになりそうです(汗)。
「東京合研」と わが園の「保育の質」
「東京合研」は午前の部と午後の部で構成されていました。午後の部は「分科会」が沢山あり、どれも興味深かったのですが、討論を見たかったため、シンポジウムに参加しました。
テーマは、「『東京の保育を考える』〜子どもにとって良い保育の質とは〜」です。
シンポジストは、
① 世田谷区保育課 田中課長
② 野方さくら保育園 羽田園長
③ 成城つくしんぼ保育園 植林さん(保護者)
気になったのは、③植林さんの話でした。
「保護者の立場から見た『保育の質』は、それぞれ。」「重要なのは、お友だちとお絵かきをしたい、園庭でかけっこしたい、あの先生に絵本を読んでほしい、というように、どの子も『明日も保育園に行きたい』と思え、やりたいことをやれる時間・空間を保障してもらえること、それが子どもから見た質の高い保育なのだと思います。」
子どもが「明日も保育園に行きたい」と思うことが、「質の高い保育」の必要条件なのでしょう。
昨日、ある幼児Yくんの連絡帳に、気になる記載を見ました。Yくんが最近保育園に行きたくないと言っている、と書いてありました。
直ぐに、前日の昼食時間に、最後まで食べていたYくんに対して、担任TがYくんの前に仁王立ちになり、「食べるのか、食べないのか、どっちかにしなさい!!!(怒)」と怒鳴り散らした様子を思い出しました。
ふざけていたわけでもなく、ただ単に食べるのが遅いことだけで、小さな身体のYくんが、大きな大人の担任Tから、上から怒鳴りつけられたのです。怖かったでしょう。保育園に行きたくなくなって当然です。
他方で、前にも書いたC先生の対応は違います。
去年の秋のある日の昼食の時間のことです。Nちゃんは、食べるのが遅かったのですが、C先生は、Nちゃんに対して、
① 「最後まで食べてもいいこと」と
② 「食べ終わった後は食器を、遠く離れた調理場まで、自分で持っていくこと」を指示しました。
完食したNちゃんが食器を持っていくと、給食の先生から、たいへん褒めて貰えました。給食の先生とC先生は、あらかじめ申し合わせていたのです。
やり遂げた感と褒めてもらった嬉しさで、午睡部屋へ向かうNちゃんの表情は、とても満足気であり、誇らし気でもありました。
園庭にでても、鬼ごっこには入らないことが多かったNちゃんが、その日は「Nが、鬼やるぅ〜〜」と言って、鬼をやってくれました。
食べるのが遅いという客観的な状況は同じです。なのに、保育士により、一方では、怒号により自尊心を傷つけられ、劣等感を植えつけられる子がいます。また、他方で、自信と自己肯定感を得られる子がいます。
対応する保育者の保育力によって、子どもの心理や発達に対する影響は真逆になります。
私は、この状況をみて、保育者としての役割の重さに、身の引き締まる思いがしました。
ちなみに、担任Tはチーフ(管理職)で、C先生は派遣社員です。園長はC先生を使って、園の改革を図っていましたが、結局、担任TとC先生との板挟みになる平保育士から不満がでて、C先生は来なくなりました(病気ということになっています)。
これが、わが園の「保育の質」です。
一年を振り返って
年度末ではありませんが、私は実質「幼児フリー」なので、このテーマは、かまいませんよね。
良かったこととして、第1に、子どもとの良い関係が築けました。自分が保育に、慣れて来たこともありますが、年長組・年少組の担任の先生が素晴らしかった。部屋の雰囲気がよかったのは、両先生による言葉かけが上手かったからでしょう。
第2に挙げたいことは、夏に幼児フリーに加われた先生が、神スキルだったこと。うちの園長も神スキルなのですが、園長が天才タイプなのに対して、こちらの先生は秀才タイプです。若い頃から、様々な勉強をしてこられたので、凡人(以下)の私が質問しても、 直ちに腑に落ちる説明してを頂きました。
第3に、園長が私を理解してくれるようになったこと。「園長先生に1番近い保育観の先生は誰ですか」という私の問いに対して、結構考えた後に「⚪︎⚪︎先生・・・××先生(私)も・・・」って。
悪かったことは、同性の同僚のこと。精神を病んでる男性先生と、向上心の乏しい男性上司。それぞれ理由は違いますが、私はひどい目に遭わされました。男性保育士の人には、「他の仕事が出来ないから、保育という女性の職場で働いているのだ」、と思われないようにして貰いたいものです(自戒を込めて。性差別の意図は勿論ありません)。
悪い理由が改善の見込み薄のため、3月で今の園を辞めます。記事「保育の現場」のEちゃん・Mちゃんはもう大丈夫でしょう、心配はなくなりました。
あと3ヶ月、園児達にとって、保育園の時代の記憶が宝箱の中身のようにキラキラしたものであるように、頑張ります!
法律学と保育
今までの記事内容に、法律学と保育〔学〕の両方を扱ったものがなかったのは、考えがまとまっていなかったからです。
今でも、あまり考えが固まっていません(汗)。でも、年内に一度は考えを示すべきと思い、ブログ名をテーマとします。
今回の具体的なテーマは、「子どもの利益」です。
法律学においては、例えば憲法学では「未成年者の人権」といったテーマで「子どもの利益」を扱います。
この「人権」ってなんでしょう。憲法の三大原則の1つ、「基本的人権の尊重」の「人権」です。学者によって「人格的自律」とか、端的に「自由」のことだとか言われます。
いずれにしろ、「人権」は重い利益です。そのため、人権を享有する「未成年者」といっても、議論の念頭にあるのは、高校生くらいです(服装の自由、髪型の自由、バイクに乗る自由などが議論の対象となります)。
学童より下の子どもの「人権」は、研究対象となりにくい印象です。
しかし、未成年者も「人であることから」人権の主体となるのですから、就学前の子どもにも当然に人権が認められるはずです。
とすると、保育の現場における保育者による叱責など(マイナスのストローク ※)は、子どもの人権制約の場面と捉えるべきです。具体的な人権内容は、「みだりに叱られない権利」と呼ぶことにします。そして、合理性・相当性のない叱責は、この人権の「侵害」となります。
次に問題になるのが、上記「合理性・相当性」を、誰がどのように判断するかです。
保育者・保育園には具体的な保育の手法について、広い裁量があり、通常は「合理性・相当性」が認められるとして、その判断が尊重されることになるでしょう。
このあたりまでは、法律家の頭でも、なんとかたどり着くことができます。問題は、その先です。ここからは、保育者(保育士)の頭が必要です。
例えば、「叱る」場面では、①叱責の必要性(説得ではダメか)、②叱責をするとして、その態様は相当か、③叱責後のフォローはあるか、といった点が検討されなければなりません(保育現場でのこの検討は、一瞬の判断です)。
そして、保育者の「叱る」行為を、「子どもに対する人権制約」という枠組みで考える以上は、以下のように考えるのが適当でしょう。
① まず、叱責は、原則として必要性が認められない。感情的にならず、淡々と、しかし真剣に「伝える」。例えば、1歳半から3歳半の自己中の時期の子どもに対しては、「あのね、友達のものは取らないんだよ」と伝え続ける。自己中の時期を過ぎた子どもに対しては、「取ってもいいのかな?」と問いかけて、子どもに決めさせるのが効果的です。(※※)
② 次に、例外的に叱責の必要性が認められる場合(生命や身体の安全に関わるとか、イジメとか)でも、態様は子どもの成長・発達に資するものであるべきです。人格を否定するような言葉かけは、絶対に禁止です。
③ 叱責がマイナスのストロークである以上、フォローは通常必要でしょう。フォローがあって、はじめて叱責の相当性が充足されます。
保育の現場は、保育者・保育園の裁量が広く、しかも子どもには批判能力がありません。この点は、旭川学テ事件(※※※)の比ではありません。
保育の時期に受けた子どもの影響は、子どもの思春期にでるそうです。慎重な保育が必要です。
これからも、法律家と保育士の目で、保育の現場を見守っていきたいと思っています。
※ 「ストローク」= その人の存在や価値を認める言動・働きかけ
※※ 参考文献として、
※※※ 旭川学テ事件判決
保育の現場 ⑤(私の愛するあるクラス)
子どもを叱ることは、扁桃体(不安や恐怖を感じるところ)を一時的に抑制するだけで、予測して行動する「前頭前野」は発達しません。
春に、上に対して警鐘をならす内容のレポートを提出したのに、スルーされていたようで・・・。
幼児クラスの主任は、相変わらず子ども達を叱りまくり、そして、副担任の私は、クラスの活動から排除されました。
しかし、クラスの子ども達が、主任がいないと、抑圧から解放されたかのように、騒ぎ始めます。
当該クラスの子どもの年齢にしては、幼すぎます。
とうとう、他の幼児クラスの担任から、園長に対して、クレームが上がりました。ところが、主任は「自分がいないときの子ども達の様子は知らない」とのこと(汗)。
「臨界期」というものがあります。6歳までに経験したこと、おかれた環境が子どもの一生を左右します。今、前頭前野を発達させなければなりません。
主任は、子ども達の人生について、どう責任をとるのでしょう。
前述のレポートのコピーを、園長と他の担任に再度配りました。レポートには、前頭前野を育てる方法についての最新研究も書いてあります。
これから、当該クラスの運営に園長によるメスが入ります。しかし、相変わらず、この主任に当該クラスを任せるそうです。