逃げ切り勝ち

逃げ切り勝ち

逃げた先にあった静かな生活は、すべて幻影だった。

独り言なので、主に自己満足な文章で構成されております。




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 その日、いつものように畑からの帰り道、土手のたもとの道をリヤカーをひいてい歩いていた。荷台には収穫したじゃがいもと、まだ3つか4つだった親父が乗っている。 夏の日差しは午前中ながら体力を奪っていくに十分な凶暴性を持っていた。しかも、農作業をした後ならなおさらである。けれど、婆さんはどうしても昼前には家に帰りたかった。いや、帰らなければならなかった。帰って、昼飯の準備をしなくては、また姑に小言を言われてしまう・・・。
 ふと、振り返って子供を見る。無邪気な様子で歌を歌っている。日射病の心配はなさそうだ。
 喉が渇いた。けれど、水筒の水はさっきこの子供に全部飲ませてしまった。
 家まではもうちょっと、距離にして1里くらいか・・・。でも、途中に水を分けて貰えるような民家は無く、リヤカーがようやく通れるあぜ道が自分の家のある部落に向かって延びているだけだ。土手の向こうには川を挟んでしばらく行くと工場があるが、渡れる橋が無い。そして、川の水は、濁って飲めたものではなかった。
 やはり、帰るしかない。
 その時、けたたましいサイレンの音が遠巻きに聞こえた。そして、更に遠くのほうでカーン、カーンと高温の金属音が響いている。
 またか・・・。
 このところ、毎日のように空襲警報のサイレンが鳴る。けれど、本当にやって来たことはあまり無い。今日も、隣町か、あるいは陸軍の飛行場のほうへ行くのだろう。
 本来なら、1キロほど引き返して、そこの部落の防空壕に入れてもらわなければならないのだが、きっと大丈夫。
 そんなことより、家に帰らなければ・・・。
 しばらく、またリヤカーをひいた。ひいた、と言うよりはひくのに集中した。集注してないと、暑さで座り込んでしまうだろう。
 喉が渇いた。相変わらず、サイレンは鳴り響いている。
 ふと、顔を上げて前を見ると、人が血相を変えて走ってくる。顔見知りだが、何処の誰だか思い出せなかった。婆さんたちを見つけると、いきなり叫んだ。
「おい!何をやっとるか!敵機がこちらへ向かっている。早く避難せんか!」
 国民服を着たその人は、それだけ言うと婆さんたちが来た方向へ走り去っていった。
 この時、婆さんはようやく事の重大さに気付いた。そして、選択肢が限られていることにも気付いた。家に向かうのは、わざわざ爆撃が激しい所へ向かって行くようなものである。引き返して防空壕へ入るのも、まだ小さかった親父を抱きかかえながらだと不可能に近い。
 ここで、やり過ごすしかなかった。
 子供をリヤカーから抱き上げて、一緒に土手の斜面にへばり付く。
 息を潜めて耳を澄ますと、高音の金属音は確実に大きくなっていた。
 B29のエンジン音はこんな感じだったらしい。そして、それと同時に野太い重低音も聞こえてきた。これは、護衛の戦闘機のものだった。
 それらの音が徐々に大きくなり、うるさいくらいになった頃、更に新しい音が加わった。それは打ち上げ花火の音に似ていた。しばらくすると、硝煙の臭いが立ち込めた。土手の向こう側の工場が爆撃されたようだ。
 勿論だが、どうすることも出来ない。ここでこうやってやり過ごすしかないのだ。婆さんは、子供にかぶさるようにして、土手の斜面でひたすら災いが過ぎることを祈った。
 しばらくこんな状態が続いて、音の群れは若干遠ざかったような気がした。おそるおそる振り返って空を見ると、煙が朦朦と上がっていた。土手のこちら側の工場も爆撃されていた。上がった黒煙の先には銀色にピカピカ輝く物体がいくつもあった。それが敵の飛行機だということを認識するには少し時間がかかった。強烈な夏の日差しを浴びて、ピカピカに輝くその光の群れに、思わず見惚れてしまったためである。だが、それも束の間、硝煙の臭いで我に帰り、無意識に土手を駆け登る。
 視界の左右にあるべき工場の建物が見つからない。2つとも真っ黒な煙に飲み込まれている。けれど、その煙の間に広がるのはいつもの風景。どうやら、家は燃えてないようだ。
 相変わらず、硝煙臭が鼻をさす。サイレンと、高音の金属音と花火もそのままだ。
 音?
 そういえば、さっきまでと何かが違う。重低音だけがやたらと聞こえてくる・・・。
 右手のピカピカに視線を向ける。一つだけやたらと大きいのがある。そのピカピカは、ますます大きくなり、婆さんのすぐ横を爆音と共に通り過ぎた。手を出せば触れそうだった。星のマークとパイロットの姿が一瞬だけ確認できた。間もなく襲ってきた風圧に頬被りしていた手ぬぐいをさらわれる。
 まだ、終わりではなかった。土手を転がるように下り、子供の手を引いてリヤカーの下に潜りこむ。目をギュッと閉じ、両手で耳をしっかり塞ぐ。
 やってくる静寂。

 10秒、20秒・・・。変わった様子はない。ゆっくり方目だけ開けてみる。
 そのとき。
 バタバタバタっと、小石のようなものがすぐそこの地面を叩いた。夕立の降り始めに似ていたが、ちょっと違う。こんなに砂埃が立つはずがない。それに、一層間近に感じるものが焦げる臭いと、耳を塞いでも地面から響くような重低音。恐怖のあまり、再びギュッと目を閉じ、耳を塞ぐ手に力を込める。


 ここで、婆さんの記憶は途切れる。そのままの体勢で、どのくらいそこにそうしていたのかわからない。気が付いたときには、硝煙の臭いは残っていたものの、辺りはすっかり静かになっていた。目が、上手く開けられない。こわばった両手をようやく耳からはずした。どこかで蝉が鳴いている。
 ハッと気付いて、子供の名を呼ぶ。返事が無い。目はまだ開かない。いや、別の意味で目を開けるのが怖くなる。
 喉が渇いていることを忘れていた。無理矢理唾を飲み込み、もう一度子供の名を呼ぶ。
 か細い声で返事が聞こえる。幻聴を否定するためにもう一度だけ名前を読んだ。
 今度は、かなりはっきり返事が聞こえた。
 よかった・・・、生きている・・・。ようやく開けた目の前には、泥だらけになった子供の顔があった。
 リヤカーの下から這い出し、泥だらけの子供の体の隅々を丹念に調べる。擦り傷はあったが、特別異常はないようだ。
 ようやく安堵。そのままそこに座り込む。しばしの放心状態・・・。


 その日、婆さんたちが、家に辿り着いたのは夕刻に近づいた頃だった。
 玄関に入ると姑が待ち構えていた。姑は泥だらけの嫁と孫を見ると、その場ににへたり込んで声を上げて泣いた。なかなか帰って来なかったため、ある程度「覚悟」していたらしい。


これが、婆さんが見た姑の唯一の涙だった。
そして、親父には、この出来事が、生涯で最初の記憶になった。