クルミ

どこかで掛け違えてしまったボタンを正すことはできないけれど。

「それもいいね。似合うよ」

そう、言ってくれる人と出会い続けていたい。


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「年間50冊読破」 企画は2008年3月末でタイムアウト。なぜか毎年5月をピークに読書中。

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いっつぁ・わんだふるわーるど

知らなかっただけで、世の中には本当にパワフルな人や、自分から見たら天才としか言いようのない人がたくさんいる。ようだ。
ポンコツな私の世界は狭すぎて、全部が異世界の話みたいだったけれど。

でも同時に気づく。

それ以上にたくさんの普通の、しかし本当に優れた人々がその“ひとり”を支えている。と。

それは日常生活のお世話かもしれないし、
社会的な事務手続きかもしれない。
あるいはその力を世の中に送り出したり、お金に換えたりすることかもしれない。
心休まる場の提供や、愛情の交換かもしれないし、
そのひらめきを他の誰かに伝えることかもしれない。
ただの人として、接することかも。
とにかく、色々。

そして……
最初は純粋に憧れて、慕って、もしも手伝えることがあったのならば嬉しくて幸せで、
なのに、しかし、だんだんと、時に、
己の無力さに絶望したり、反対に
距離感の接近を自分の力だと勘違いしたり、
強すぎる光に振り回されてボロボロになったり、
そういうことが起きるのかもしれない。
自分を見切れなければ直ちに。
過信も悲観も、そういう意味で結末は似たようなものだ。

強い光があるところには濃い影ができるものだ。というセリフの意味が、
ほんの少しだけ、ようやく、分かるような気がしている。

パワフルな人に時々会うのは面白いだろう。
つまらない日常を崩すようなことがきっとどんどん起きる。
でも忘れてはいけない。
その力に対等でいられるだけの自分でいないと、きっとあっという間に吹き飛ばされたり、ぺしゃんこに潰されたり、
一瞬で置いてけぼりにされたり、する。
発想の違いだけなのに、勝手に傷ついたり、勝手に崇めておいて、失望したりする。
挙げ句、己ではなくその人を責めたり憎んだりする弱さが、かなしいかな、人にはある。
せめて見極められていれば、苦しくなった時にそっと離れられるのに。

そういう意味で、好きなはずでもいつでも緊張感があって、ヒリヒリしていて、
刀を持った武士みたいな気持ちだ。(刀も武士もイメージの世界だけれど。)

私はその、優れた普通の人々のレベルでさえない。
その繊細で絶妙な加減を無意識でしているのなら、それもすごい能力だし、
意識の力だけで天秤を保てるのなら、同様に、
なんて自分と状況を冷静に理解して律しているのだろうと思う。

たった一日。たった一日一緒にいるだけで、ものすごく消耗する。
どんな一瞬も、あるがままの自分(もしくは目指す自分)でいることが本当にむずかしい。
軽くウソをついたり、ネコを被ったり、話を流したり合わせたり、する方がはるかに楽なのだ。と知る。
でもそんな技はこういう場合、あらゆる意味で無力どころか、マイナスですらある。
どんなにへなちょこでも、素の自分の攻撃力(?)が一番高いという事実。

すごく疲れるのに、また会いたいと思う。
きっと私はそうやって自分を試すことを含めて
その人に会うことを選択しているのだろう。
いつでも転落する、そのギリギリのラインを見切り続けて、
そのうちにほんのちょこっとだけ、自分のレベルも上がることもあるかもね。と思いながら。楽しみながら。
違う世界を覗かせてくれることに感謝をしながら。

……そう。しながら、
私は私の世界を生きればいい。
結局はそれだけ。

だってその世界が100%正しいなんてことは多分絶対ない。
いつだって自分が生きる世界はここの世界だ。
委ねてはいけない。たずなを渡してはいけない。

いつか広がったり、深くなったりした時、ふいにそんな世界と太く繋がることもあるかもしれない。
またもっと新しい景色に出会うのかもしれない。
そう思ったら、ここの世界の可能性の無限さに、クラクラする程だ。

光も影も感じながら、できればキラキラ明るい世界を生きていきたい。










-*-*-*-

数日前に思いつきたての、備忘録のような、書き込み。
アウトプットするかは別として(笑)私の当面の検討課題であることは間違いないだろう。

新年、きましたね。(笑)

ゆるっとふわっと、気まぐれに出没予定です。
予定は未定。
遭遇された皆さまへ、本年も幸多からんことをお祈り申し上げます。

たまにしかこないから

ホームに「メッセージがあります」と出ていたのに

クリックしたら、ありません。との表示。

広告なら構わないけれど、どなたかが送ってくれていたものだったのなら

本当に申し訳ない。。

もしも、もしも、お心当たりのある方、いらっしゃいましたら、ごめんなさい。

 

ブログを読んだよ、という意味で「いいね」を押していいのか、分からない。

昔よりパソコンをつける回数も減っているのだけれど、

つけた時は、読ませて頂いています。

 

-*-*-*-

 

録画DVDを整理していたら、10年以上前の、チルがTV番組に出た時のが出てきた。

わ、若い……!

そして、歌い方や、

姿勢?あ。立ち居振る舞いは同じなので、その“姿勢”ではなく、

歌うことに対する姿勢。。が、結構違っていることに気づいて、びっくりした。

 

でもよく考えたら、当たり前なのだ。

 

常に進んでいるチルだから、すきなのだ。

現状に満足するバンドだったら、きっとファンではなくなっている。

進化しているから、自分もそうでありたいとおもうから、今でもすきなのだ。

 

10年、15年、20年。

振り返れば、それに近い単位でチルと共に人生があるけれど、

あと同じだけ年月が経って、今の桜井さんと同じくらいの年齢になった時、

私も、ちょっとは進化できたじゃん!って、自分のことをおもっていたいな。

カッコイイ大人に。

もう学生じゃない、ほんとはいい大人だから、そんなこと口には出して言えないけれど。

 

(いつでも世間の人を見ては、どうしてこんなに子どもっぽいのかな、なんて、

 思ったりもする。)

きっと、服装とか、結婚とか、そういうことじゃなくって、

なんとなく、

決めてきたことの数。自分と向き合ってきた数。

の問題……のような、気がしている。

ひとつ、かいほう

よし、やった。
別に意識して残していた訳でもないが、結果的に残っていたものを、消した。
これで何かが変わるのか(変わるとしてどういう形でどこに表れるか)不明だけれど、
確かなことは、
決して勢いや投げ捨て、ではなく、
発見したのち、自分はどうしたいのか意識的に考えて、こころに問いかけて、答えを出し、
そうして感謝とお別れをおもってから、消した。
ということだ。





最近の私は、絶賛「自分を知る」キャンペーン(?)中である。
手掛かりはそうそうなく、こうして見つけた時に、薄皮をはぐように紐解いている訳なので
大きく何かが変化している訳でもない。

ただ、いつかのように、
自分が自分を知らないばかりに目の前の人を無駄に傷つけて、自分も傷ついて、ということは
もうしたくないだけ。
もしも誰かを傷つける決断をしなくてはいけないとしても、
自覚はしていたい。未来の私に発見されて後から気付くなんて、絶対にごめんだ。
どんなに鋭利でも、そこに愛と光のある答えと言動を持っていたい。
自分の舵は自分の手の中にあって、意思を伝えた上での舵取り(判断)でありたい。
嵐や闇の中であっても、見失いたくない。

つい、弱い方へ、甘い方へ、逃げたくなる。
見ていないふり、気づいていないふりをしたくなる。
……いや、してしまう。
でも自分に嘘をついたとしても、多分ごまかしきれない。何も言わずに見ている自分がきっといる。

ごめんね。ありがとうね。きみのこと、ちゃんと知っている。見つけたの。
ないがしろにしない。だいじにする。
そう、決めた。

だから、おのずと選択肢も限られてくるんだ、
未来の私にとってプラスでないのなら、私を照らすものでないのなら、あたためたり、励ますものでないのなら、
それはもうきっと、さようならの合図。

バイバイ。ありがとう。
愛を込めて、光の中へてばなすの。
そのであいを、むだにはしない。

「なんでもできる」




① 君を縛るものは、ほんとうには、なにもないよ。自由に、なんでもしていいんだよ。



② 君は何もできないと、今のスキルは役立たずだと、思っているみたいだけれど、
そんな風に過ごしてきた年月こそが君の土台なんだよ。
それは、つまり、そういうことだよ。





ひょっこり、そろーっと

時代だ。。

ひょっこり、と書くと、今は芸人さんが出てきてしまいそうだよね。苦笑

忘れた頃……というよりは、もう忘れ去っているところに、更新を試みてみる。

 

特に閉鎖する意思も、放置するつもりも、ないけれど、

かといって意欲的に更新する気もなく、ゆるゆるーっと、きて、

蓋を開けてみれば、二年以上放置していた。

開くだけで舞い戻れることが、良いことでもあり、

人知れずずっと残っていくことの不自然さをおもってみたり、もする。

 

でも、はっきり書いていないにしても、私にとっては日記同然だから、

読めば、大体その当時何があったか分かる。

このブログ、2005年から書いていたのか。びっくり。

 

書いていた内容、もそうだけれど、それ以上に

自分という存在がそんなには変わらない。という事実が

はずかしくもあり、ま、そんなもんか。という気持ちもあり。

 

やっている仕事もそんなに変わらないし

(いや、細かく言えば結構増えているし、ややこしくもなっている。大枠が一緒。)、

住んでいる街も変わらない。

周りにいる人々は、職場やら人事やらの都合で、ゆるやかに動く。

友人も、そんなに増えたり減ったりしない。

 

遠巻きに見たら、私の人生はブログがストップする前と今とで、

ほとんど変化がないだろう。

私の生活も、そんなに変わらない。

 

でも、核は変わらなくとも考え方は日々少しずつ少しずつ、変わり、

変化は見えない位に小さいのに、

結果として、何かが始まったり、終わったりする。


……いま、ここにびしーっとそれを書きそうになったけれど、

急に出てきてそれはどうだろう。と思って、やめることにした。

過去は過去だ。

 

大なり小なり、あって、

はたから見たら小さくても、自分の中では大きな決断や気づきがあり、

今、ここにいる。

目に見えて、大きな変化はない。起こしてもいない。

でも小さなちいさな変化が積もり積もって、

たぶん、そのうち小さく大きな化学反応を起こす。

あいかわらずポンコツだから、ひとよりかなり燃費もバッテリーも劣っているし、

些細ながらも時に気付かされる瞬間に遭遇するし、

なんでもできる人生の中で、命だけは有限な中で、

生きていく方法を、今になって、模索している。

 

そんな、現在。

 

色々、あった中で

図らずも私は「自分」というものを実は全然知らなくて、

それが時にひとを傷つけることもあることを知り、

じゃあ何が大事なの?

何が譲れないところなの?

私は、だれなの?何がすきで、何をしたくて、どうやって生きていきたいの?

そんな風に問われてみると、

その答えがまだ、全然ちゃんと見えていない。

見えていないことと、そんな風な自分であったことに、二重におどろき、愕然として。


好きなものを書き出してみたって、
きっと以前と大差はないけれど。

 

ひとつ前の私よりは、きっと、一歩ずつ、成長した。

 

人生は螺旋階段状だと、誰かも言っていたから。

自分ではよく分からなくても、ちょっとは高さが変わったって、しんじてる。

そして、自分を知って、その道を生きることだけが

目の前の、その先の、誰かと通じていたり、慰めたり、

蝶の羽ばたきのように影響を与えていたり、すると

もう、気づきはじめている。

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