次の令和哲学の準備のために、最近幕末の状況を調べています。

 

何となく触れたことはあったけど、改めて調べてみるとこういうことだったのかと新しい発見があります。

 

江戸時代の幕藩体制は、すべてが幕府の直轄地ではなく、各地域を藩主(大名)が治めていました。

 

親藩:徳川の血縁関係のある藩

参政権なし

 

譜代大名:関ヶ原以前から徳川の家臣や味方になっていた藩

江戸から近い、要所に位置、参政権あり

 

外様大名:関ヶ原の戦い以降に徳川の味方になった藩

江戸から遠い地域に位置、参政権なし

 

上記のように3つに藩を分けて統治。

 

諸藩が力を持ちすぎると幕府の脅威になるため、藩の力を削ぐシステムや決まりがありました。

 

幕府の許可なしに、自分の藩内にお城をつくったり、船をつくったらダメという「武家諸法度

 

藩主の妻子は江戸に住むこと(人質)そして藩主は一年ごとに江戸と自分の藩に住むことを義務付けられた「参勤交代

これによってお金を使わせる。

 

そして「鎖国

キリスト教が広がり幕府の教えに従わなくなることを恐れたこと。外国による植民地化への懸念。

幕府の貿易独占。

 

この体制により250年あまり、大きな戦争もなく、江戸時代が続いていました。

 

しかし、それが大きく揺らいだのが、ペリーによる黒船来航です。

 

アジアの大国清がアヘン戦争に敗れ、このままでは日本も清のようになってしまうと大きな危機感を持っていた多くの人たち。

 

世界情勢を見た時に開国止む無しと考えていた幕府と、外国は追っ払えという朝廷との間に歪みが生じます。

 

孝明天皇は下田と箱館の港を開放し、アメリカの船への補給などを認めた日米和親条約はまだしも、商取引を開始するという日米通商修好条約を結ぶのは、外国の言いなりになる可能性が高く、危険だと考えていたようです。

(このあたりの真意はいろいろ言われており、深いものがありそう)

 

今すぐに外国を追っ払うのは国力の差があり難しい、一旦外国と取引をして、国力を蓄えてから追っ払うにしても、諸藩が力をつけた結果、それが幕府に向かう可能性が大いにある。

そうなれば大規模な内乱が勃発し、外国がその隙をついてくる。

 

西洋列強が迫ってくる時間的なゆとりもない中、迅速に日本が一つにまとまり、近代化を進めていくには、旧い体制を一旦リセットする必要があったのではないかと思いました。

 

それにしても、京都や江戸、大阪といった中心地で大規模な戦争もなく、政権が交代したことは奇跡としか言いようがないなと感じました。

 

川名 哲人