昨日は地元の神社仏閣を巡った。
まずは、秋葉神社。

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9号線から城山へ上がる道を入り、すぐのところにある神社だ。
普通は上まで上がり、護国神社や城跡、春は桜を見ながらお弁当を食べるお花見の名所だ。
しかし、この秋葉神社、歴史があるのだ。
(見た目ポップ的な印象を与えるが)
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「浜田城」歴史の散歩道  
第2部その5 浜田城と柿本人麻呂
 
 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は、飛鳥時代の歌人で三十六歌仙の一人として、後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられています。 この柿本人麻呂の終焉の地が浜田であるという説が古くから伝えられてきました。なぜ浜田が終焉の地と言われてきたのか、浜田城と柿本人麻呂の残した歌から ひもといてみたいと思います。
 浜田城は、元和5年(1619)に伊勢国(三重県)松坂から国替となった古田重治(初代浜田藩主)によって、元和 6年(1620)から築城されました。築城にあたり、亀の縁起にちなんで「鴨山」を亀山と改名したと言われ、浜田城は「亀山城」とも呼ばれています。ま た、城地にあたって、神社はそのまま祀られ、幕末には稲荷社、厳島社、雁木(かりき)社等が城内に鎮座していました。
 これらの神社の中で、柿本人麻呂と関連するのが雁木社です。資料によると、太鼓堂の下に雁木大明神という祠があり、人麻呂の祠とも山伏の塚と も伝えられていることや、「石州浜田城」という城図に、太鼓堂の下に「人丸」と記載されていることなどから、古くから雁木社に人麻呂が祀られていたと考え られています。現在、この雁木社は、秋葉神社に合祀されています。
 また、柿本人麻呂辞世の一首(掲載1)や、妻の依羅娘子が、人麻呂の死に際して詠んだ二首(掲載2)の歌にも、鴨山、石川(「石見軍記」に浜田川が石川と記載されている)の名が詠まれており、このことからも、浜田と人麻呂とのつながりが指摘されています。
 ただし、現在、石見でも柿本人麻呂終焉の地とする諸説があり、考証が進められていますが、歴史的には定かではなく、伝説の域を出るものではないと考えられています。
浜田市公式ホームページ、浜田ふるさと資料庫 より)

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この秋葉神社の場所は、木が生い茂り昼間でも暗いが、空気が澄んでいる。
精霊がたくさんいそうだ。

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だって、ほらこの通り。
たくさんの写真が引っくり返って写った。
今までの中で、一番数的に多い。
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秋葉神社は今は殿町にあるが、昔はこの場所は牛市町だったようだ。
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携帯が壊れているのかもしれない。
でも、神社仏閣を撮るときだけシャッターを押したら、逆に写ってしまうって…
(思わず消してしまったが、秋津神社も天地逆転に写っていた)
今までは神社を撮る中の1/30ぐらいの割合でなっていた。
工作や手芸など全部含めると1/200ぐらいの割合だ。

神様や精霊が喜んで出迎えてくれていると思いたい。