脇坂信夫94歳ブログ始める。
俺は優秀だった。
5年間商業学校に入っていて
ソロバン一つ弾けないのは俺だけだった。
(学校から帰ったら兄貴の赤ん坊のお世話ばっかりしていたのだ)
それまでも
勉強は全然しなかったのに、
商業学校にトップで入学した。(マジ)
不思議だ。
父が「商業学校なら冷房暖房完備のところで
働けるから」と、商業学校を薦めてくれたのだった。
そして俺は卒業間近に熊本商業から私一人、
白紙召集を受けた。
戦争だ。WAR
長崎県の大村の第21海軍航空省で
海軍の戦闘機の零戦を作っていたところ。
散々空襲された。
10月25日、大空襲でやられるまでに、
その1年半前に俺はそこに行った。
エンジンを作る発動機部長の隣で
青写真を作る席に行った。
どうして商業学校出身が飛行機のエンジンを作る大事なところに行ったのか分からない。
発動機部長から回ってきた図面は
ドイツのメッサーシミットのものだった。
俺のところにその図面が来ても……
ドイツの潜水艦でもってきたものだったそうだ。
18歳脇坂二等工員……俺が見た戦地は。
一番に東京のはやぶさなどを作っていた陸軍の
なんとか製作所が爆撃に遭い、
次に狙われたのが
我らが海軍の零戦第21海軍航空省である。
10月25日に空襲があった。
その時、俺は事務所の部長の隣の部屋にいた。
いきなり、爆発し、何もかもが吹っ飛んだ。
俺は無傷ピンピンで助けに行った。
海軍病院から大村湾に大きな下水溝が(縦横2メートルくらいの)そこが防空壕になっていた。
その真ん中に爆弾が落ちたらしい。
その中がいっぺんにやられた。
俺はそこに助けに行った。
中に生きている人がいたらなんとか解放しなければと思ったからだ。
挺身隊という女学生の部隊が中にいた。
誠に無残でむごたらしい光景がそこには広がっていた。
土塵が舞い上がり、視界が悪い中
血の匂いがした。
悪臭だ。
小さな川の流れのように壕の真ん中のくぼみを血が流れている。
覚えているのは、
壕を開けた時に、長い髪がついた頭の皮が剥がれてくっついてきた。
何しろ髪の毛と頭の皮が一緒になってはげてきたのである。
それでも必死に壕の中を這うようにして
生存者を探した。
一人もいない。
飛び散った死体ばかりであった。
それが10月25日に起こったことであった。
俺が勤めていたところだけは大丈夫だった。
帰り着いたら部長が赤紙を持って
「脇坂〜!」と呼んでいた。
発動機部長は至極寂しそうな顔をして
「俺でもなんともできなかった」とつぶやいた。
ついに赤紙召集がきたのである。
続く……