小2の息子と公園に行った。

 

天気のいい昼下がりに、とりあえず小さなテントを張って、

椅子を出して座っていただけだけれど、

なんとも幸せな時間が流れた。

 

息子にとっても、これで満足のようだった。

 

誕生日が近いから、欲しいというデジタルカメラを与えた。

 

Amazonで4000円くらいのものだ。

画像の悪さが、ノスタルジックな気分にさせる。

 

小2にデジタルカメラ、というのも贅沢な話ではあるけれど、

とても安っぽいものだった。

 

けれど、子供は大喜びしているようにみえた。

 

買ってあげた私としても、とても嬉しくなる。

 

子供は、ただの公園でも、安いカメラでも、大喜びしてくれる。

 

もし、「こんなカメラかよ」って言われたら

あげた私としても悲しくなる

 

 

ふと、神の視点を考えた。

 

 

私たちは、神様から多くのものをいただいている。

 

自然

食べ物

この身体

「運命」でさえ

 

すべて、神様から頂いたものだ。

 

子供の頃は、神様から頂いたものにケチをつけることもなく、ただ、悦んでいた。

 

赤ちゃんは、全てを悦ぶ象徴だ。

 

だから、与える側の神様だって、

受け取る側が悦べば、

嬉しく思うのだろうと思う。

 

赤ちゃんが「このミルク不味い」なんていう顔しているのを、見たことがない。

 

けど、大人になるにつれ

 

この飯はマズイ

もっと刺激がある遊びがしたい

もっと性能の良いスマホがほしい

こんなところで寝れない

 

「文句」ばかりいいたくなる

 

神様は、

「こんなにあげてるのに、満足しないのか」

と、がっかりされる気がする。

 

 

 神様だから、

 

そんな小さなことは言わないと思うけれど

 

けど、

やっぱり与えたものに対して、

「うれしい!」

 

悦ぶ人を見ると

 

神様だって嬉しいんじゃないかと思う。

 

だから、

 

目の前の与えられているものを、

ただ感謝して

喜ぼう

 

悲しい出来事だって

 

「この経験で強くなれ」

 

という神様の応援かもしれないから

 

もし

食べ物

着るもの

 

全てあるのなら

 

全力で喜ぼう

 

そうすると、神様も喜んで

 

もっと与えてくださる

 

だから運も良くなる