今回の舛添問題で舛添氏側がおかした最大の問題とは、要するに政治資金規制法のところである。

政治家は性善説に基づいて、政治資金に関する用途は法的に制限を設けられていない。ここから私生活へと資金を流用したら、ある種の脱税行為であり、資金を提供した支援者を裏切っていると言えなくもない。

ここで肝となるのが、“支援者”と“政治資金”で、というところである。何も“都民”の“税金”を使って、蓄財に励んでいるわけではない。そして法的にも違法ではない。

結果的に、間接的にそうなっている、という話しも、それに関わる金額は別荘を売る等し、給料も無給でいいと言っている。それで充分犯した不正は金額的には埋まるはずである。

であれば、今回は彼自身の対応が傲慢であったり、色々問題は0ではないが、それで反省してまた都政に励んでもらえばいい、という話しが少しはでてきてもいいのではないのか。

しかし、どうも世論はこの辺を勘違いしているらしく、都民を裏切り、我々の税金で、舛添けしからん、という感情論の風潮が強過ぎるように思われる。氏の子供がいじめられ、脅迫されるなどハッキリ言って異常である。

どうも傲慢な人間がいるからボコボコにしてやろう、という感情論が透けて見えてならない。ある意味、ドナルド・トランプのような人間が日本で表舞台に立つことは、今でもなさそうである。

都民に余裕が感じられない。政治家であれば市民に常に潔癖でなければならない、ミスは許さない。自分も病気になっても頑張るから、他人にも同じ様に強制する。それは日本社会に巣食う文化的病巣のように見える。戦前のカミカゼ強制文化から何も進歩していない。

許す、という優しさや寛大さが見られない。問題はなにか、と問う理性や判断力も欠けている。成果とはなにか、という合理性にも欠けている。

会社でも社会でも、ミスをすると詰められ、責められ、辞めさせる。が、辞めさせる側が自分を省みることはない。自分たちは安全で常に批判だけしてられる。これは民主主義を利用した、卑劣な個人攻撃によるいじめのようなものである。

これは普段の都民の心情が表出していることを考えると、正直、東京は非常に怖い場所になってきたと思わざるをえない。

更に驚くべきは、猪瀬、石原再選待望論が存在することだ。

石原氏は新銀行東京問題があり、猪瀬氏は徳州会に関わる同じ、政治資金問題がある。石原氏は明確に都民の税金を使い、多大な損失を出し、猪瀬氏のは完全に違法であった。

にもかかわらず舛添が駄目なら石原、猪瀬、というのはどういう思考回路をしているのか正直理解できない。不勉強なのかもしれないが、有権者の不勉強で子供までいじめられるなら、政治家が不憫でならないし、誰も政治家などやらなくなるだろう。

そして、何より都知事選挙となれば大体50億円かかる。それはもちろん都民の税金から払われる。別に選挙がないからといってリファンドされるものでもないが、こんな事に50億もかける価値が果たして本当にあるのだろうか。

むしろ都民は、この50億で例えばシングルマザーの扶助や、学費が払えない子供の奨学金にするのと、舛添氏を追いつめて選挙に50億使うのとどっちがいいですか?という二択を与えてみたい。

もう辞任が確定しまったのが残念でならない。基本的に私は舛添氏のファンでもない。むしろ、優秀だが非常に傲慢な人間性には問題のある人物だとは思っていた。初期の対応など、有権者をバカにしているとしか言えないようなものであった。
しかし、完璧な人間などは総理であってもいないし、このような形で辞めさせられるような人物ではないとも思っている。

ハッキリ言って、この程度の政治資金の問題はどの政治家もある。表にならないのは、マスコミとの付き合いが上手いか否か、脇が甘いか否か、記事にする価値があるか否かの差でしかない。

反舛添派が誰を次の都知事にしたいかわからないが、誰とは言わないが経験の浅いネットの波に乗って都知事を目指すような人物なら、何もわかっていないため、断言するが次が新人ならスキャンダルはとてもこの程度では済まなくなるだろう。出て来る問題もこのレベルではなくなるだろう。

そして誰を選んでも政治家は駄目だ、と政治に対するニヒリズムが広がる。

確かに、政治家の資質は問うべきだ、しかし、過剰な期待や規範を押し付けるべきではない。そのような中で政治は駄目だと感じる人物がいるとしたら、駄目なのは政治ではなく、その人物が不勉強であるだけだ。そして、本当に駄目だと思うなら、自分が都知事になればいい。

自分は勉強もせず、自らが責任を負う訳でもなく、ただ感情論で個人攻撃を繰り返し、あいつもだめだ、こいつもだめだ、と言うのは民主主義を盾に使う卑劣漢でしかない。それでは民主主義は正しく機能しない。