「推しがいないなんて人生半分損してるよー」

 

と言われたことが何度かある。そうかー、と思い聞き流すことも、やかましいわ、と思い聞き流すこともどっちもある。そんなこと言われても、人生で一度も推しができたことがない。

推しが存在しない。人生半分損してるよー、なんていわれたって、推しという概念を知らないし未経験なんだから損もできない。未成年にビールのおいしさを説いたって無駄なのと同じだ。私の人生は、推しがいる人の人生よりも小さいのであろうか。ふざけるな、といいたいところだが、案外そうなのかもしれない。

 

なんでかな、と自分でも思う。私も推しを目の前にきゃーって言ってみたい。推しを作ろうと、勉強したこともある。ジャニーズは一通り知っているつもりだし、友人によるプロモーションも飽きるほど聞いた。韓国のアイドルも少し調べた。男女ともにストイックですごいし、きれいで美しいと思う。坂道アイドルはあまり知らないが、かわいいなとは思う。

 

好きなバンドやアーティストはもちろんいる。ライブにも出かけるし、音楽も聴きまくる。インタビューも読むし、円盤も買った。しかしこの『好き』と、推しとは大きき異なることを肌で感じる。推しをみたりする際の、きゃー感が足りていない。

 

思えば私は昔からあまのじゃくであった。たとえば、ONE OK ROCKいいよね、といわれれば言われるほど、私はONE OK ROCKを聞かなくなった。フルサイズではじめて聞いたのは、友達が組んだバンドが演奏した「欲望に満ちた青年団」だった。ワンオクがはやった時期に、わたしはきのこ帝国を聞いていた。それがかっこいいと思っていたし、佐藤ちあきが好きだった。このことを学友に話すと、それはあまのじゃくっていうか単に歪んでるだけだね笑 とかいわれてしまい、素直にへこんだ。

 

これが良くなかったのだろうか。推し文化を受容し始める中学生から高校生の時期にかけて、思春期が原因と思われるあまのじゃく、ひいては中二病に漬かりまくっていた私は、推しという言葉ごと嫌っていたのかもしれない。なんだよ推しって、と思っている間に、周りの友達は次々に推し、自担とともに人生を歩み始めていた。いいな。わたしも推しという概念の写真をキラキラにデコってサンリオのフレームに入れて持ち歩きたい。

芸人は例外だ。芸人を推しとする人とはわかり合えない。

 

エムワンが終わって以降、令和ロマンの顔ファンの投稿が私のタイムラインを埋め尽くしている。このくるまメロすぎる、みたいな文章マジできついからやめてほしい。くるまにファン食いの実績あるのもなんか嫌だ。だが私は金属バット友康のあの雰囲気が好きなので、くるまにメロってる女たちと大差ないのかもしれない。いや、わたしは今日の友保さんのビジュ爆発、なんてポストしないので、あいつらとは一線を画す。

 

閑話休題。もうひとつ、推しがいないのは、私の独占欲によるところもあろう。アイドルは、ファンの皆さんを相手に活動している。自分が必死に追いかけている人は、自分単体に向けていつもありがとう、といってくれるわけではない。そんなの嫌すぎる。

推しとは一種の愛着表現、おきにいりと恋愛感情の間くらいの感情だとおもっているので、おきにいりも恋愛も独占したいとき、推しを作ることは叶わないのでははないか。自分の一番気に入っているぬいぐるみとまったく知らない人が一緒に寝ているのは許しがたい。ねとりとか論外。それに似たような感じがする。

 

推しがいていいな、と思うのは、オタクのエネルギッシュさがうらやましいのもある。ひとりの人の仕草、挙動、一言一句に一喜一憂し、それを分かち合い、考察し、解像度を深める営みがうらやましい。哲学的だし。存在に余白を残しておけるのも、推しだからできることだ。そういうのが、うらやましい。でも芸人は例外。

 

推しは、できたこともないしこの先できる気もしない謎概念だが、友達の幸せの理由だから一目置いている。でも別にいなくてもそんなに不便は感じていない。みんなの輪に入りたいなー、ってちょっと思うくらい。だから、いない方がおかしいよねーみたいな論調で話してくる人がいなくなりますように。あと芸人の顔しか見てないファン。おしまい。