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京極為兼の提唱する歌風を
追究した、
伏見院歌壇に集った
前期京極派歌人たち。
そして、それを引き継いだ
後期の京極派歌人たち。
京極派歌人の歌を、
梶間の訳とともに
掲載しています。
リンク先をご照覧ください。
伏見院中宮。
ふっくらと余韻ある歌を詠む、
京極派を代表する歌人。
西園寺実兼の長女で、
実子には恵まれないながら
夫、伏見院の子女の多くを
養育、後見しました。
持明院統と大覚寺統の確執の
深まるなか、
夫亡きあとは
持明院党の家長的立場として
持明院統そして京極派和歌を
支えました。
為兼や伏見院は
前期京極派の指導者、
また中心人物ですが、
世代的に彼らと
直接接する機会のなかった
後期京極派歌人たちに対し、
永福門院が橋渡し役を担った、
といえます。
持明院統の苦境を
家長として耐え忍んだのちの
晩年の歌には、
この世のつらさのかぎりを
生き抜いた者特有の
穏やかな諦観が滲んでいます。
藤原定家の曾孫のひとり。
定家の孫の代に
三家に分かれた歌の家の、
嫡流ではない家に生まれました。
主流派でない者が
存在感を示し生き残るため、
また主流派でないからこそ、
伝統を踏まえたうえで
その欠点を超えた、
当時としては異端的な
京極派和歌を提唱。
パトロンである
西園寺実兼や伏見院周辺の
サロン的集団で
その歌風を切磋琢磨、
深めてゆきました。
いかにも帝王らしい
おおらかさ、そして品のある
歌を詠む天皇歌人。
持明院統、後深草院の皇子。
即位は20代前半と遅く、
10年以上を東宮として
比較的自由な、
将来に希望の持てる立場として
過ごしました。
その伸びやかな雰囲気の
東宮の周辺に
京極為兼を歌の師とする
文学サロンが形成され、
京極派和歌が
育まれてゆきました。
のち、京極為兼に
『玉葉和歌集』を編ませます。
伏見院中宮である永福門院の
父であり、
京極為兼を庇護した
京極派和歌のパトロン的存在。
自身も京極派の和歌を詠み、
勅撰集にも多く入集しています。
政治上の信念から
持明院統、伏見院についた
わけではないので、
当時の貴族として
当然のこととして
大覚寺統、亀山院にも
二女を入内させています。
『とはずがたり』作者二条との
あいだの娘がこの二女であろう、
と岩佐美代子氏が
推測しています。
伏見院の東宮時代の近臣。
東宮が「友」と呼ぶにふさわしい
年齢とのことで、
東宮の5歳ほど上か
と岩佐美代子氏が推定。
東宮の践祚と相前後して
20代後半で亡くなりました。
“心の絶対尊重”を是とする
京極派には、
心の弛緩しやすい
政治的に優位な時期に
歌がつまらなくなる、
という傾向があります。
具顕は東宮践祚前に病を得、
東宮グループが
政治的恩恵を受ける前に
亡くなりました。
京極派としての揺籃期に
生き、歌を詠み、
政治的に開花する前に死んだ
彼の歌は、まるで
京極派の最後の輝きである
『風雅集』撰集のころの歌風を
先取りしているかのようです。
不幸を理由に心を腐らせてしまう
光源氏のような人もいる。
そのいっぽうで、
不幸を体験しながら
厳しく心を研ぎ澄ましたことで
時代や環境の制約さえ
飛び越えたような歌を詠んだ
具顕のような人もいた、
ということを
私たちは覚えていたいですね。
為兼の姉。
後嵯峨院(伏見院の祖父)の
中宮である大宮院に
出仕したのち、
伏見院、永福門院にも仕え、
伏見院皇子である花園院の
乳母も務めます。
前期京極派のほぼすべての
歌会、歌合に出詠。
源具顕の姉妹で
東宮時代から伏見院に近侍し
院の皇子をもうけた
権大納言局と同一人物
と考えられます。
実父の早世に伴い
実父のいとこにあたる
北畠(源)師親の猶子となった
可能性が、
その歌才からも指摘されます。
九条道家、藤原定家、
それぞれのひ孫に当たる女性。
両親の早世のため
祖父藤原為家に養育され、
厚みのある和歌教育を
施されました。
京極派はしばしば
水墨画の趣のある叙景歌を
詠むと言われますが、
九条左大臣女の叙景歌は
京極派において珍しく、
骨格が太く安定感があり、
鮮やかな油絵を思わせます。
京極派と対立する二条派の
為世(九条左大臣女のいとこ)
から見ても
摂関家の父を持つ彼女は
軽視できず、
九条左大臣女は京極派ながら
二条派系勅撰集で
重い扱いを受けています。
二条教良の娘、
二条道良女のいとこに
当たります。
永福門院に仕え、
歌友として歌を磨き合いました。
妹の生んだ
伏見院皇女進子内親王を養育。
後深草院の中宮腹の皇女、
伏見院の異母妹。
遊義門院の院号宣下ののち、
25歳のころ
いとこに当たる後宇多院に
懸想され、
38歳で亡くなるまで
愛されました。
伏見院第一皇子、
永福門院の猶子。
京極派歌人ですが、
晩年の京極為兼とは
不仲だったとも。
伏見院第三皇子、
後伏見院の異母弟。
元は和歌にそこまで
熱心ではなかったものの、
伏見院亡きあとの永福門院の
訓戒もあり、和歌に精進、
後期京極派の
指導者的存在となりました。
大変潔癖な性格で
学問に熱心で道心に篤く、
兄、後伏見院の息子である
光厳院を養育、
のち光厳院の親撰した
『風雅和歌集』を監修しました。
伏見院第一皇女で
花園院の同母姉。
24歳で早世しました。
伏見院第二皇女、
永福門院猶子。
伏見院の晩年に儲けた皇女。
進子内親王の産まれるころ、
女房の産んだ皇女の
ほとんどは
内親王として認知されず、
幼少期に出家していました。
が、そのなかの一定数は
勅撰集入集にあたって
内親王宣下を受ける、
ということがありました。
進子内親王はそのひとりで、
早いうちに両親に死別、
伯母にあたる永福門院内侍と
播磨に下り、出家。
『風雅集』選定計画の
始まったころ、
和歌の才があるとのことで上京、
康永四年(1345年)内親王宣下。
後期京極派の
代表的歌人として重んじられ、
70歳前後まで活躍します。
京極為兼猶子として
京極派の後継者と
目されたものの、
為兼失脚後他家の猶子となり
その後
生家正親町家に復しました。
姉妹の多くは
持明院統皇族に仕え
その子女を儲け、
公蔭自身
後期京極派の主要歌人として
活躍、
光厳院の落飾に殉じて
剃髪しています。
『玉葉集』には改名前の
「藤原(京極)忠兼」で
入集しています。
後伏見院第一皇子。
父の養母永福門院や両親、
叔父である花園院に愛育され、
後期京極派の中心的人物として
数々の歌合を主催しました。
鎌倉時代倒幕に失敗した
後醍醐天皇に代わり、
践祚、即位。
南北朝動乱期の
つかの間の平安を縫って
花園院監修のもと
『風雅和歌集』を親撰。
南北朝、また室町幕府内の
争いに巻き込まれ
激動の人生を歩んだ人です。
南朝に拉致されたことも
ありますし、
晩年は一介の僧として生き、
亡くなりました。
花園院皇女。
女房を母とするので
内親王宣下は遅く、
貞和二年(1346年)もしくは三年。
『風雅集』入集のための宣下
と考えられます。
花園院皇女。
女房腹ではなく、
光厳院妃である徽安門院の
同母の姉妹ですが、
詳しいことはわかっていません。
徽安門院
花園院皇女、光厳院妃、
寿子内親王。
花園院妃宣光門院の産んだ
皇女です。
花園院は
兄の息子にあたる光厳院の
養育を任され、彼を愛育。
光厳院はその廃位後
政敵である後醍醐天皇の皇女を
妃とさせられますが、
彼女は父の死後
密かに身を隠し出家します。
その後、光厳院の迎えたのが
寿子内親王で、
院号宣下を受け
徽安門院となりました。
花園院にとっては、
我が子同様の甥と
最愛の妃の産んだ愛娘の
結婚ということで、
光厳院の前の結婚と異なり
祝福されたものとなりました。
「観応の擾乱」で光厳院が
南朝に拉致された時に
北朝の皇族、延臣を
取りまとめたのは徽安門院です。
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